Ⅲ 星久喜遺跡(星久喜町字枇杷首台二七一番地ほか)

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 都川本谷から、仁戸名支谷が分かれる分岐点の南側にあって、北に向って突出する三角形の台地上に立地する。
 今回、発掘調査の行われたのは、その西縁の段丘斜面で、標高一〇メートル前後の所である。この部分が京葉道路第四期工事の路線にあたっているために破壊に先だつ調査として行われたもので、調査範囲は約四〇アールである。このため、遺跡の全体を知ることは困難であるが、その一端はうかがうことができるであろう。
 この調査で発見された住居址は五基で、うち、二基が弥生時代のもの(第五・七号(部分))で他は土師器に伴うものである。ほかに弥生時代の遺構としては、方形周溝遺構(部分)一基、土壙三基が発見された(註5)。
 第五号住居址(二―一〇二図)は、長円形に近い隅丸方形の平面プランをもち、ローム層を一〇~二〇センチメートルほど掘り込んで床としている。北半部の縁辺に溝を設け、その反対側には方形のピットがある。主柱穴はP1~P5の五個と考えられている。炉址は発見されなかった。

2―102図 星久喜遺跡発見の住居址(No.5)平面図及び伴出土器   (『京葉』)

 伴出土器には、鉢形土器(二―一〇二図左)が多く見られ、ヘラ整形の無文、または内外両面あるいは一面をハケ状工具で整形したもので、いずれも口縁は押圧波状口縁となっている。その中の一個(深鉢・報告書No.6・二―一〇二図2)の底部に籾痕が残されていた。
 第七号住居址は攪乱がはなはだしく、全体は確認されていないが、隅丸方形プランで周溝をもっている。胴上半部に平行沈線文をめぐらす壺形土器を伴出している。
 土壙(註6)(二―一〇三図)はいずれも、長軸二・五メートル前後、幅一・二~一・五メートルの長円形の平面プランで、深さは五〇~七〇センチメートルで、五号を除いて底は比較的平坦である。これらからも、波状平行線文をもった壺形土器や、羽状条痕文あるいは櫛目文をもち、押圧波状口縁をもつ鉢形土器が伴出している。

2―103図 星久喜遺跡発見の土壙(No.4)平面図及び伴出土器
   (『京葉』)

 更に、第一周溝遺構(二―一〇四図)は、完掘されていないが、発掘された部分から推定して、方形周溝墓(註7)と見ることができる。

2―104図 星久喜遺跡発見の方形周溝遺構平面図   (『京葉』)

 星久喜遺跡からは以上のような弥生時代の遺構が発見されているが、それらは、縄文時代、あるいは古墳時代の遺構にまじって発見されている。
 その中で、弥生時代の遺構は、古墳時代の住居址に比較すると、比較的、台地の縁辺部に近い位置に立地している傾向をつかむことができる。このようなことから、弥生時代の遺跡としての星久喜遺跡の構造をある程度、想定することができるのではなかろうかと考えられる。
 また、本遺跡から出土した弥生式土器は、いずれも中期後半の宮の台式に含まれるものである。これについて、報告者は、宮の台式から分離させた小田原式の分類を用いている。
 この点は、現在、弥生式土器の編年の再検討期に入っているのであるが、ここでは論究をさけたい。