北から南へ向って末広がりに開けながら伸びるその台地は、その幅が最大になる直前に、東・西両方から小支谷の侵蝕を受けて一旦くびれたのち、その南側に、東西約五百メートル、南北約二百メートルの矩形の平坦地が形成され、その上に本遺跡は立地している。標高は二〇~二五メートルを数える(二―一〇五図)。
2―105図 大森第2遺跡周辺の地形図
この台地の東・南・西の三方の斜面は急傾斜面となっているが、くびれ部における西側からの斜面は比較的緩やかな斜面となっている。
この台地の西半部を、ほぼ北東から南西に向って、京葉道路が通過するため、それによる破壊に先だつ調査として、昭和四十六~四十七年にかけて発掘された(註8)。
発掘範囲は予定されている道路の敷地内に限られているために、台地面積の一〇~二〇パーセントにすぎず、遺跡の全貌をとらえるに至っていない。
そのような、部分的な範囲の発掘ではあるが、その範囲のほぼ全面にわたって九〇基の弥生時代から平安時代にかけての住居址が発見されているということから、仮に、未調査の部分にも、同様に住居址が分布していると仮定するならば、市内最大の、しかも、弥生時代から古墳時代を経て平安時代にまで至るという点で、千葉市における古代史探求の上で非常に重要な遺跡であるということができる。
このような遺跡が、分断されてゆくということは非常に残念である。
確認された住居址九〇基の中で、一〇パーセント強の一一基が弥生時代の住居址である(二―一〇六図・二―一九表)。
2―106図 大森第2遺跡における弥生時代住居址の分布 (『京葉』)
No. | 時期(型式名) | 形態 | 規模 | 備 |
10―A | 小田原式 | 不明 | 不明 | ピット7 周溝なし |
14―A | 小田原式 | 楕円形 | 950×710 | ピット3 周溝なし |
14―B | 小田原式 | 楕円形 | 650×525 | ピット8 周溝なし 弥生時代住居址(14―A)と重複 |
15―A | 小田原式 | 楕円形 | 650×? | ピット2 周溝全周? |
17―A | 小田原式 | 隅丸方形 | 710×? | ピット7 周溝全周? |
18―A | 小田原式 | 楕円形? | 不明 | ピット1 周溝なし |
19―B | 小田原式 | 不整形 | 800×? | ピット3 周溝なし |
21―D | 小田原式 | 楕円形 | 不明 | ピット1 周溝なし |
26―D | 小田原式 | 隅丸方形 | 660×580 | ピット13 周溝有 |
47 | 小田原式 | 楕円形 | 630×580 | ピット5 周溝一部欠 |
70 | 不明 | 不明 | 不明 | ピット8 周溝不明 |
この弥生時代の住居址の大部分には、後続する古墳時代以後の住居址が重なっている。また、中には、弥生時代のものどうしで重複関係にあるものもある(二―一〇六図第一四A号址と第一四B号址)。
住居址の平面プランは、隅丸方形ないし楕円を呈するものがほとんどである(二―一〇七図)。
2―107図 大森第2遺跡発見の弥生時代住居址(No.47)平面図及び伴出土器 (『京葉』)
ここで注目すべき点は、弥生時代住居址の発掘範囲内での分布状況である。
発掘範囲の中ほどにある、第一〇A号址と第七〇号址を別として、ほかはすべて、発掘範囲の東縁に沿って、あたかも並列するかのような状態で発見されている。
このことは、この大森第二遺跡における弥生時代の集落の展開が、発掘範囲の東側にあることを示唆しているであろう。
これらの住居の営なまれた時期は、弥生時代の中期後半、宮の台式期(小田原式)と見ることができる。
2―108図 大森第2遺跡出土の主な土器(弥生中期小田原式) (『京葉』)
その中にあっても、第一四号のA号址とB号址のように、同じ土器型式の時期に属していながら重複関係にあるという事例が見られる。
このことは、弥生時代の集落が、二つの時期に分離する可能性を示しているであろう。
また、更に、土器型式の分離にも及ぶ可能性もあろう。
本遺跡から出土した土器以外の弥生時代の遺物としては、磨製石斧破片二、砥石二、環状石斧片一など数点にすぎず、当時の生活、特に本遺跡における独自の特徴を追求するには不十分である。