Ⅳ 大森第二遺跡(大森町字西ノ花二二二番地ほか)

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 柏崎町から花輪本谷に入って、大厳寺台地を過ぎるとすぐに大森支谷が北西へ向って入っている。この大森支谷の先端がさかのぼるにつれて、北から北東へと方向を変えることによって囲み込むような形で一つの台地を区画している(西ノ花台地)。
 北から南へ向って末広がりに開けながら伸びるその台地は、その幅が最大になる直前に、東・西両方から小支谷の侵蝕を受けて一旦くびれたのち、その南側に、東西約五百メートル、南北約二百メートルの矩形の平坦地が形成され、その上に本遺跡は立地している。標高は二〇~二五メートルを数える(二―一〇五図)。

2―105図 大森第2遺跡周辺の地形図

 この台地の東・南・西の三方の斜面は急傾斜面となっているが、くびれ部における西側からの斜面は比較的緩やかな斜面となっている。
 この台地の西半部を、ほぼ北東から南西に向って、京葉道路が通過するため、それによる破壊に先だつ調査として、昭和四十六~四十七年にかけて発掘された(註8)。
 発掘範囲は予定されている道路の敷地内に限られているために、台地面積の一〇~二〇パーセントにすぎず、遺跡の全貌をとらえるに至っていない。
 そのような、部分的な範囲の発掘ではあるが、その範囲のほぼ全面にわたって九〇基の弥生時代から平安時代にかけての住居址が発見されているということから、仮に、未調査の部分にも、同様に住居址が分布していると仮定するならば、市内最大の、しかも、弥生時代から古墳時代を経て平安時代にまで至るという点で、千葉市における古代史探求の上で非常に重要な遺跡であるということができる。
 このような遺跡が、分断されてゆくということは非常に残念である。
 確認された住居址九〇基の中で、一〇パーセント強の一一基が弥生時代の住居址である(二―一〇六図・二―一九表)。

2―106図 大森第2遺跡における弥生時代住居址の分布   (『京葉』)

2―19表 大森第2遺跡における弥生時代住居址一覧 (『京葉』)
No.時期(型式名)形態規模
10―A小田原式不明不明ピット7 周溝なし
14―A小田原式楕円形950×710ピット3 周溝なし
14―B小田原式楕円形650×525ピット8 周溝なし 弥生時代住居址(14―A)と重複
15―A小田原式楕円形650×?ピット2 周溝全周?
17―A小田原式隅丸方形710×?ピット7 周溝全周?
18―A小田原式楕円形?不明ピット1 周溝なし
19―B小田原式不整形800×?ピット3 周溝なし
21―D小田原式楕円形不明ピット1 周溝なし
26―D小田原式隅丸方形660×580ピット13 周溝有
47小田原式楕円形630×580ピット5 周溝一部欠
70不明不明不明ピット8 周溝不明

 この弥生時代の住居址の大部分には、後続する古墳時代以後の住居址が重なっている。また、中には、弥生時代のものどうしで重複関係にあるものもある(二―一〇六図第一四A号址と第一四B号址)。
 住居址の平面プランは、隅丸方形ないし楕円を呈するものがほとんどである(二―一〇七図)。

2―107図 大森第2遺跡発見の弥生時代住居址(No.47)平面図及び伴出土器   (『京葉』)

 ここで注目すべき点は、弥生時代住居址の発掘範囲内での分布状況である。
 発掘範囲の中ほどにある、第一〇A号址と第七〇号址を別として、ほかはすべて、発掘範囲の東縁に沿って、あたかも並列するかのような状態で発見されている。
 このことは、この大森第二遺跡における弥生時代の集落の展開が、発掘範囲の東側にあることを示唆しているであろう。
 これらの住居の営なまれた時期は、弥生時代の中期後半、宮の台式期(小田原式)と見ることができる。

2―108図 大森第2遺跡出土の主な土器(弥生中期小田原式)   (『京葉』)

 その中にあっても、第一四号のA号址とB号址のように、同じ土器型式の時期に属していながら重複関係にあるという事例が見られる。
 このことは、弥生時代の集落が、二つの時期に分離する可能性を示しているであろう。
 また、更に、土器型式の分離にも及ぶ可能性もあろう。
 本遺跡から出土した土器以外の弥生時代の遺物としては、磨製石斧破片二、砥石二、環状石斧片一など数点にすぎず、当時の生活、特に本遺跡における独自の特徴を追求するには不十分である。