本台地のほぼ全面が、京葉道路の路線敷地となっているため、昭和四十七年に、破壊に先だつ発掘調査が行われた(註9)。
本遺跡では、縄文時代の竪穴遺構や、古墳時代の竪穴住居址八基にまじって、弥生時代後期の竪穴住居址一基が発見された(第六号址・二―一〇九図)。
2―109図 車坂遺跡発見の住居址(No.6)(弥生後期) (『京葉』)
弥生時代の住居址は、台地のほぼ中央部に発見され、古墳時代のそれは、その西方に(台地先端方向)、並んで発見された。
この住居址は、長辺約五・三メートル、短辺約四・二メートルの隅丸方形の平面プランを有し、掘り込みは非常に浅く、一〇~二〇センチメートルで壁の立ち上がりは悪い。
柱穴は四個で、住居址平面形の対角線上にきちんとおかれている。
北隅にさしわたし五〇~六〇センチメトール、深さ約二五センチメートルのピットがあり、中に貝殻が残されていた。
炉は中央よりやや北西寄りにあった。
壁の周囲に焼土が見られたことにより火災にあったものと推定されている。
ここから出土した遺物は、すべて土器片で、細かい縄文を施したもの、口唇部に縄文を施したもの、輪積痕を残して文様を構成した口辺部破片などがあり、報告者は、北関東系の後期弥生式土器であるとしている。