仁戸名支谷から分かれた平山支谷の最奥部が、北から南へ向ってさかのぼって谷頭に至ろうとする谷の中央部東側の台地上に立地している。標高は約四五メートルを数える。久ケ原式期に属すると伝えられている(註11)。
この遺跡で問題となるのは、その立地において、遺跡の西側が低地に面しているのであるが、この低地と台地上とを結ぶ斜面が、この周辺ではほとんどが急斜面であることである。更に、その低地も、現在でも幅一〇~二〇メートルと非常に狭小であることがあげられる。
弥生時代も後期に入って、水稲耕作もかなり普及していたであろう当時にあっても、本遺跡のおかれた環境は、決して好適なものということはできないであろう。
東側には広い台地がつづき、約一キロメートルを隔てて都川本谷が入ってきており、この低地は比較的広い幅をもっているが、本遺跡とこの都川本谷の低地とを結びつけて考えることは無理であると考えられる。
このようなことを考慮するとき、本遺跡の、弥生時代の遺跡としての基盤が水稲耕作にあったか否か、もし仮に水稲耕作を基盤としているときにはその水田はどこにあったか、というような点で、非常に大きな問題を含んだ遺跡であるといえよう。