古墳時代の後半になると、土師式土器とは別に、須恵器(祝部土器)(すえき(いわいべどき))と呼ぶ硬質で灰白色の土器も作られる。これは朝鮮渡来の須恵部(陶部)という職業集団によって作られたからで、土師式土器も須恵器も時代の推移とともに器形に多少の変化を見せながら、古墳時代から王朝時代(奈良・平安時代)まで使用された釉薬をつけない系統の土器である。
古墳時代は鉄製農工具の普及と農業技術の改良、灌漑用池溝の建設などによって、耕地が拡大され、生産量が飛躍的に増加するとともに、氏族共同体内部における家族間の富の格差が弥生時代とは比較にならないほど明確になった時代で、共同体を統率する族長は、生産物の管理、社会秩序の維持、治水・灌漑の促進と利害関係の調整、共同体相互の政治的軍事的諸問題の解決、交易の拡大、とりわけ豊作を神に祈る祭の司祭者としての職能と責任を負う特別な力を持つ者と信ぜられ、共同体の成員を従属させて多くの富と権力を握り、次第に社会から隔絶した階級に成長した。すなわち、いわゆる豪族に変貌するのである。
その後、共同体が連合したり、弱少の共同体を統合したりして部族国家が生れると、豪族の中から首長が選ばれ、族長以下を従えて地縁的に結びついた大氏族の最高権力を握り、祭政一致の行政を行う新たな階級社会を成立させた。しかしながら、首長が神権的な専制王としての地位を確保し、諸豪族に優越した存在として民衆の前に君臨するようになったのは、更に若干の時を経過し、首長の世襲制が認められる段階に達してからのことであろう。
『三国志』の「魏志東夷伝」倭人の条にしるされている我国三世紀の状態は、「其国(邪馬台)もと亦男子を以て王とせり、住すること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王とす。名づけて卑弥呼という。鬼道(呪術)を事とし能(よ)く衆を惑わす。年已に長大なるも夫婿(ふしよ)(夫)なし。男弟ありて国を佐(たす)け治む。王となって以来、見(まみ)ゆる者あること少し。(中略)卑弥呼死するを以て大いに〓(ちよう)(墓)を作る。径百余歩、徇葬する者奴婢百余人なり。更に男子を立てしも国中服せず、更に相誅殺す。当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女(一族の女または長女)壹與(いよ)、年十三なるを立てて王となす。国中遂に定まる。」とあるように、既に多数の部族国家が連合して卑弥呼という女王を擁立し、呪術的施政が容認されて、しかも、それが壹與(いよ)という女子に世襲される段階に入ったことを示しているが、卑弥呼も壹與も専制的な支配者ではない点が注目される。ところが、三世紀末葉~四世紀初頭の築造とみられる奈良県桜井市箸中の箸墓(はしのはか)と呼ばれる巨大な前方後円墳(全長二七八メートル、前方部の高さ一六メートル、後円部の高さ二九・四メートル)にまつわる伝承(註1)では、三輪山(御諸山)の神霊に奉祀する巫女(ぶじょ)であった皇女倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の遺骸を葬るために、はるばる奈良盆地の西端にある大坂山(二上山の北)から人民を珠数(じゅず)つなぎに並ばせ、石を手送りにして運んだ大工事が行われ、「昼は人が作り夜は神が作る」と信ぜられた。記紀によると、この姫の甥はハツクニシラススメラミコトとおくり名された第十代崇神天皇で、三輪山の神を祭り、奈良盆地東南部を貫流する初瀬川、寺川周辺の部族国家を統合し、大和政権の基礎を固めた最初の実在する天皇(註2)であった。そして垂仁・景行と世襲される三代の間に、奈良盆地一帯を拠点として、更により広い地域にわたる統一国家を作りあげたものと考えられ、この時期の天皇や皇族の陵墓と推定される崇神陵、景行陵、箸墓、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳などの全長二百~三百メートル級の大型前方後円墳が、三輪山を中心とする付近に存在していることは、神権的な専制王としての天皇の地位がすでに確固不動のものとなっていたことを立証するものである。
古墳はこのように氏族社会が造営した記念物の一種で、特定の被葬者を手厚く埋葬するために、集落と異なる場所に、必要以上の墓域を占有し、集団労働の奉仕によって築かれた墓地である。古墳の外形でよく知られているものは、我国独自の墳形とされている前方後円墳のほかに、前方後方墳、帆立貝式古墳、双方中円墳、円墳、方墳、積石塚などの高塚古墳があり、横穴や地下式横穴なども広義の古墳とみてよい(註3)。
2―20表 古墳時代の時期区分