古墳が盛んに作られた時代を考古学では古墳時代というが、その始源を的確に把握することは極めて困難である。記録上では前述の「魏志倭人伝」に、「卑弥呼死するを以て、大いに〓を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人なり」とあるのが、最古の高塚古墳である。卑弥呼の没年については、唐の李延寿が編纂した『北史』に「正始中、卑弥呼死す」とあり、「魏志倭人伝」に、卑弥呼の死後、男王を立てたが国中服せず、宗女壹與が王となるとあり、また『晋書』には魏の次に起こった晋(西晋)の初め、二六六年ころに、この国に朝貢していることがみえることなどから、正始(二四〇~二四九)年中前後のことと察せられる。つまり三世紀上半期には、今日の寸法に換算して直経一四〇メートル前後(魏の一歩は二三・四センチメートルである)の高塚古墳が作られたとすると、それは大和地方にある大型の帝陵級の後円部に匹敵するほどの大規模なものであった。
しかし、『三国志』の著作年代は、二六六年よりも新らしく、撰者陳寿が没年二九七年までのことであるから、その間に、邪馬台国(註4)が魏・晋と通交しているうちに、中国の墓制(秦~漢は方墳、魏~晋は円墳)が我国に伝来した。このことが、やがて中国に伝えられ、陳寿が『三国志』を書くときに、女王卑弥呼の墓を大きな円墳であろうと想像して記述したこともあり得よう。また、「殉葬する者奴婢百余人なり」という誇大と想われる表現方式からみて、中国風の文飾が加わっているものとも考えられ、この記事の信憑性はうたがわしいとする見解もある。
また大和政権の成立を前提として、高塚古墳が発生したと主張する考古学者は次のように説明している。
大和政権成立以前の首長は、部族国家に擁立された司祭的性格を持ち、伝世の宝器(漢代の鏡や碧玉製腕飾)を司祭者の権威の象徴と考え、それを管理することによって首長の地位を保持して来た。それが大和政権の成立によって、首長権が世襲制に変わり、政治的権力が確立された結果、司祭者的首長権のシンボルとされてきた伝世の宝器を必要としなくなったから、これをある首長の死とともに、古墳の中へ埋め去ってしまったのである。古墳はこのような情勢の変化を契機として発生し、これ以後の鏡(魏の三角縁神獣鏡や〓製鏡)は、一代限りの王権の象徴物に変わり、王権の優越性を誇示するために、各地の首長を服属させる代償として与えたものである。現在紀年銘によって製作年代の明らかな呉の赤烏元年鏡(二三八年)、同七年鏡(二四四年)、魏の景初三年鏡(二三九年)、同正始元年鏡(二四〇年)などを出土する古墳が、必ずしも最古の一群のみに属さず、これらの鏡の製作年時よりも、一世紀近く後の時代に造営されていると想定されるものもある。したがって、古墳の形式から見て最古と考えられるものも、三世紀後半ないし四世紀初頭としなければならない。それは「各地の首長を埋葬する古墳の形式が、その外形から内部の施設にいたるまで、大和の制度を模範とすることにつとめたからである(註5)」という。また卑弥呼の墓を古墳と認めず、その後間もないころに高塚古墳の成立を考える人もある。
一方、東洋史の立場から見ると、朝鮮半島の高句麗、百済、新羅の高塚古墳出現の時期は、それぞれ漢、東晋、前秦王朝に朝貢して官爵を与えられたという一世紀初頭、四世紀前半、及び四世紀中ごろにほぼ一致する。このことから、邪馬台国の女王卑弥呼が魏から親魏倭王に封ぜられ、金印紫綬(金印とそれを身につけるための紫の組ひも)を与えられた景初二年(二三九)から数年後に卑弥呼が没したとすれば、その官爵身分に照応する中国の礼法に従って築かれた高塚古墳の中に埋葬され、それによって国内的権威を示したものと想定される。すなわち我国の古墳文化が三世紀の上半期に突如として出現したということも不思議ではない。したがって、当時邪馬台国が魏王朝に派遣した計九人の使節に対しても官号が与えられているから、彼らもまたその官号にふさわしい高塚墳墓の中に葬られたことが想定され、日本の古墳の発生は、その初発から前方後円墳、前方後方墳、方墳、円墳などの多様な型式を併存していたことになろう。そして、このような身分的権威と結合した墳墓型式が設定されると、やがて国家秩序の体制化が進むにつれて、各種の墳墓型式も定型化し、各地方に分布していったのであろうとする説もある。そして、前方後円墳という我国独自の型式が出現したことについては、「中国古代王朝の権威を象徴するものは祭祀の場所としての宗廟(そうびょう)・社稷(しゃしょく)・圜丘(かんきゅう)・方丘であった。しかも礼制によれば宗廟・社稷は天子のみならず諸侯もまたもうけるべきものであった。そしてこれらの場所における祭祀儀礼が支配者の権威とその正当性とを象徴していたのである。ところが上述のごとく中国の礼法と密接な関係があると想定される大和政権にはこれらがなくて、あるものはただ前方後円墳のみである。するとそこでは前方後円墳がこれらの象徴的営造物の機能を一手に代行しなければならないということになる。そこで前方後円墳は墳墓でありながらも、権威の正当性を象徴する宗廟・社稷・圜丘・方丘の祭祀機能をかねおこなう営造物となっているのではあるまいか。(註6)」と。