前方後円墳成立の系譜

218 ~ 219 / 452ページ
 近年の大規模な遺跡発掘による成果の一つとして、方形周溝墓又は方形周溝遺構と称されるものが北は宮城県から南は九州までほぼ全国的に分布する。これは平均一辺一〇メートル前後を方形に溝を廻らしたり、四辺の溝が切離されているもの、コの字形の溝を有するものなどがあり、その形は一定しない。方形周溝墓では平面のほぼ中央に木棺、土壙、壺棺、甕棺などに一~数体が埋葬される。方形周溝遺構では埋葬の痕跡が明瞭でないが、両者とも周溝の内外から往々供献用の特殊土器が発見されるところから、方形周溝遺構もおそらく木棺に入れた遺骸を、浅く地面を掘って納めたものであろう。これらの遺跡は弥生時代中期から古墳時代前期にわたり、微高台地の集落址の中や集落に近接した土壙墓群の近くにあることが多いが(註7)、奈良県榛原町西峠遺跡や福井県原目山一号墓(註8)・王山・長泉寺遺跡などでは丘陵上に設けられた土壙墓群に近接して、低い截頂方錐形の盛土が施こされる。また平地にあるものでも、茨城県須和間・東大阪市瓜生堂(うりゅうどう)遺跡では同様な盛土が認められる。これらの遺跡から発見される副葬品は一般に貧弱でわずかに少数のガラス玉などが検出されることから、族長層の墓と考えられる。しかし、原目山一号墓では、刀・〓(やりがんな)などの鉄器、碧玉製管玉、ガラス玉合計千個があり、福岡県前原(まえばる)町平原(ひらばる)の方形周溝墓は、中央部の割竹形木棺の内部から玉類千数百箇、棺外から素環頭(そかんとう)太刀一口(いっこう)、漢式鏡三七面、〓製鏡(国産の鏡)五面が発見されたといわれている。このことから(註9)、その被葬者は弥生時代後期の豪族か首長級の者ではなかろうか。
 この時期の豪族層の地位の確立を想わせる墓制に方形台上墓や円形台上墓がある。前者は岡山市津島の都月(とつき)二号墳・総社市伊与部山一号遺跡・岡山県鋳物師谷(いぶしだに)二号墓などで、いずれも方形のプランをもち「丘頂、山頂に立地し、墓域が盛土によって立体的に画され、葺石(ふきいし)に継承される列石と埴輪に継承される特殊土器をそなえ、集団墓でありながら内部構造と位置に明確な差が形成され、木棺をおさめた竪穴式石室と木棺直葬がみられ、各種玉類や刀子などが副葬されており、全体として古墳にいちじるしく接近した現象的諸特徴をそなえている(註10)」。また後者は兵庫県加古川市神野町西条五二号墳で、丘陵の突端部に高さ一メートル、径二〇メートルの円形の墳丘を盛り、石槨(せっかく)、鉄剣一、内行花文(ないこうかもん)鏡一、弥生終末期の壺形土器五箇が、主体部の周辺に埋められていた(註11)。
 次に都月二号墳と同じ山頂にある都月一号墳は古墳時代初頭の前方後方墳(全長三三メートル)で、墳丘に葺石がしかれ、竪穴式石室を築き、朱塗りの大型器台形埴輪(死者に供物をする容器をのせる台の形をした埴輪)が裾をめぐらす。岡山県総社市宮山の前方後円状の墳丘では、円形部分の中央の竪穴式石室から、舶載四獣鏡、刀剣、銅鏃、鉄鏃、ガラス小玉が副葬され、土器棺に利用されていた朱塗りの特殊器台形埴輪が発見された。しかもこれらの埴輪に類似すると想われる土器片は、昭和四十三年に宮内庁が、前述の奈良県桜井市箸墓の後円部を試掘した際にも発見されている。そこで、このような成立期の前方後円墳や前方後方墳を、兵庫県や岡山県で発掘した近藤義郎は次のような仮説をたてた。
 成立期の前方後円墳や前方後方墳の側面形は、前方部が後円(後方)部に対して低く長目になっており、平面形は、前方部の前半の部分が、あたかも三味線の撥(ばち)のように開いた形をしている。これは後円(後方)部が首長墓の本体で、前方部の前半の部分は、方形台上墓の形を象徴化した祭壇であって、ここは、かつての部族共同体の埋葬祭祀の場であったものが、首長の権力の中にとりこまれてゆく姿を投影したものである。また前方部の後半の部分は、首長墓と部族共同体の集団墓とを結ぶ回廊の役目をはたすものであろう(註12)。
 このような墳形をしている畿内及び周辺の代表的な古式古墳には、奈良県の箸墓(前方後円墳)、手白香皇女陵(たしらかこうじょりょう)(前方後円墳)、京都府の椿井大塚山古墳(前方後円墳)、兵庫県の養久山(やくやま)一号墳(前方後円墳)、吉島古墳(前方後円墳)などがあり、奈良県天理市杣山町の天理西山古墳(全長約一八〇メートル)は、大型の前方後方墳であるが、後方部は、基部が方形で上部が円形という特異な形を呈している。以上のことから前方後円墳成立の系譜は、必ずしも大陸墓制の直接の影響を受けることなく、弥生時代の族長墓として設定された方形周溝墓に源流を発し、それが豪族の方形台上墓に変移し、やがて首長の誕生に伴って、前方後方墳から前方後円墳への発達過程を想定することができる。しかし、前方後円墳の発生地とみなされ、しかも最も大型前方後円墳の密集している畿内において、このようなプロセスをあとずけるに充分な遺跡は、いまだ発見されておらず、突如として大型前方後円墳が発達したという印象が濃厚である。このことは大和政権の急激な権力の上昇によるものか、大陸墓制の刺激が何らかの形で投影しているものか、今後に残された重要な課題というべきである。