臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・直(あたい)・首(おびと)などの姓(かばね)を冠して呼ばれる首長や豪族は、各氏の氏ノ上(うじのかみ)と仰がれ、氏人(うじびと)と部民(べみん)とを従え、奴婢を使役して、彼らの私有地である田荘(たどころ)を経営し、その国の政治と司祭の地位を世襲していた。彼らは後に大和朝廷の支配下に統合されるに及んで、国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)・村首(すぐり)・伴造(とものみやつこ)などに任ぜられ、旧来の土地人民を保有しながら、一面朝廷の官吏として、貢納臣従等の義務を負い、国・県(あがた)・評(郡)(ひょう(こおり))・屯倉(屯田)(みやけ(みた))・御名代(みなしろ)・御子代(みこしろ)・邑(むら)などを支配していた。
右のうち、県、屯倉、御名代、御子代は皇室の直轄領土で、五~六世紀の間にことに多く設置されたが、成務天皇紀には、「五年秋九月、諸国に令(みことのり)して以て国郡(くに)に造長(みやつこ)を立て、県邑(あがた)に稲置を置き、並に楯矛を賜いて表(しるし)と為す。」とあり、諸国に国造の任命が盛んに行われたのと並行して、県が各地に設置された。県の語源は上り田(畑のこと)とか、田班(あかちだ)とか、吾が田とか種々あって定説を見ないけれども、その長官が稲置の場合は水田に関係した地域を支配していたことは確かである。しかし大和の六県(高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布)のように特に重要な県には国造(葛木国造)や県主(十市県主・高市県主など)を任命することもあった。市内の稲毛町や東寺山町字稲城台の地名が稲置に由来するものとすれば、県の所在地は付近の可耕水田面積から見て、さほど広い地域ではなかったであろう。
屯倉は元来御領地の米倉を指す称呼であったが、のちには御領地そのものを意味し、これまた朝廷の勢力発展に伴って全国各地に設置され、改新以後は、屯倉の所在地に国府や郡家(ぐんか)が置かれた場合が多いことから考えると、その規模は県に比較して、一般に広大な領域をもっていたことが察せられる。今房総の屯倉を古典や地名などから推定すると、
上総国
国府(市原市惣社?)、伊甚屯倉(夷隅郡夷隅町国府台)、天羽屯倉(君津郡富津市豊岡)
下総国
国府(市川市国府台)、海上屯倉(銚子市大字三宅)、印旛屯倉(印旛郡成田市長沼)
安房国
国府(安房郡三芳村国府)
などが挙げられ、房総が当時政治的にも文化的にも大和朝廷の威力の前進拠点であったことが知られる。殊に、上総、下総は重要な地域で、東海道に属していたから、諸豪族や首長の中にも、早くから朝廷に服属の意を明らかにし、自己の土地を奉獻することによって、旧来の地位を安堵されていたものもあった模様で、安閑天皇紀元年四月の条にある、伊甚国造稚子直(わかごのあたい)が春日皇后のために国土を収公され、屯倉となった伝承は、この間の事情を反映しているものといえよう。
さて、屯倉は田部(たべ)と钁丁(くわよろぼ)とが耕作に従事したが、前者は屯倉直属の部民(べみん)で、景行天皇紀五七年冬十月条に「諸国に命(のりごと)して田部、屯倉を興(おこ)さしむ。」とあり、钁丁に関しては、例えば安閑天皇紀元年十二月条に「毎郡に钁丁を以て春の時に五百丁(いおよろぼ)、秋の時に五百丁を、天皇に奉獻(たてまつ)ること子孫(いやつぎに)絶たじ。」とあるように、豪族や首長の部民が季節的に就役したものであるらしい。記紀には、屯倉や田部を氏とした太田部直(あたい)、田部連(むらじ)、田部臣(おみ)、田部直(あたい)、三宅連、大宅臣などの例があるが、この太田部に関し、時代は降るけれども、千葉郡出身の防人(さきもり)の歌が『万葉集』に一首記載されている(註13)。
千葉の野の
児手柏の含(ほぼ)まれど
あやにかなしみ
置きてたが(ち)来ぬ
右一首は、千葉郡太田部足人(たりひと)の作
この文意は「千葉の野の児手柏の花のように、あの子はまだつぼみのままでいるが、ひどく可愛くて、心にかけながら置いて出かけて来てしまった」というほどのことであろうから、田部や太田部を統率する伴造(とものみやつこ)とその隷属下にある部民や奴婢が、以前から千葉国(改新後の千葉郡)内に住んでいたという推測が許されるならば、市内に屯倉があったことも可能かと想われる。ただし、千葉野と称する地域は極めて莫然としたもので、吉田東伍は「千葉郷の東にして、市原郡印旛郡及び山辺郡に連なれり、今の誉田村、白井村、更科村等にわたる」と述べており(註14)、大体都川、鹿島川を含む一帯を指すものと考えられる。例え千葉国内に屯倉があったとしても、それが直ちに市内に設けられていたとは限らないけれども、強いてその地域を求めるならば、都川中流に位する太田町大字太田から多部田町付近をあてることができる。
2―112図 児ノ手柏
部民(べみん)や奴婢(ぬひ)は、氏族社会を構成する下層の階級で、ことに奴婢は被征服者、捕虜、犯罪人及びその一族、負債者、掠奪者、被貢獻者等からなり、主として政治的圧力によって奴隷化された不自由民であるが、部民は集団的な隷属民であり、各々戸をなして家族とともに生活していたのに対し、奴婢は個人的に主家に隷属して一戸をなすことすら許されず、ほとんど財物と異るところがなかった。しかし、部民も奴婢も所有者に隷属し、彼らの給与によって生活し、彼らの命ずる種々な労働に奉仕した点は同じである。これらの人々は当時国民のあらゆる生活必需品を直接生産したり、貴族、首長、豪族の種々な使役に従事した労働者で、朝廷に直属する部民は品部(ともべ)といい、伴造(とものみやつこ)の支配を受け、首長、豪族又は神社に隷属する部民は部曲(かきべ)という名称で呼ばれていた。品部の種類は記紀に百八十部(ももやそべ)とあるように非常に多いが、前述の田部、太田部などのほかにも、園部(そのべ)、服部(はとりべ)、土師部、須恵部、矢作部(やはぎべ)、玉作部、鍛治部(かぬちべ)、舟木部、酒部等々のように工作をこととする集団が最も多く、その他祭祀、政治、軍事、学問、芸術、交通等に関係する集団もあった。市内の矢作町大字矢作台、同大矢作台の地は、矢作部の居住地と考えられ、葛城町大字宮名部は不明であるが、やはり何かの部民の居住地かもしれない。
なお品部には右のほかに、御名代部(みなしろべ)、御子代部(みこしろべ)、大私部(おおきさいべ)、私部(きさいべ)等の特殊なものもあった。これらは、いずれも皇室直属の部民で、舎人部(とねりべ)などもこの一種であるが、記紀には御名代部は、天皇、皇后、皇子等の御名を後世に伝えるために置かれたものと記載している。例えば、長谷部(はせべ)は大長谷若建尊(おおはつせわかたけのみこと)(雄略天皇)の御名代、福草部(三枝部)(さいぐさべ)は市辺押磐(いちのべのおしいわ)皇子の御歯が、三枝の如くであったことに起因してつけた皇子の御名代である。市内誉田町に大字長谷部の地があり、三枝部は市内作草部(さくさべ)町が今に往古の名称を伝えている。御子代部は、天皇に御子が無いために置かれたものとされ、白髪部(しらがべ)(白髪尊即ち清寧天皇)などはその部民であり、大私部と私部は、太后や后の封民で、『日本後紀』延暦二十四年の条下に、千葉国造大私部直善人(おおきさいべのあたいよしひと)の名が見えるのは、善人の祖先が、王朝以前には、大私部を統率して、太后とその子孫に奉仕していた首長であったが、皇威の進展とともに次第に自らの勢力を蓄え、後には千葉郡下を支配するようになって、国造の称号を与えられるに至ったものと理解される。
おそらく、これら皇族所有の部も、本来は田部と同様に、皇室直属の重要な封民で、国家の財政的基礎をなすものであったが、後にはある特定の皇族の手に帰するものが多かったようである。
次に首長や豪族の部民即ち部曲(かきべ)は、大化二年正月の詔(みことのり)の中に、「臣、連、伴造、国造、村首(むらおびと)の有(たも)てる部曲の民、処々の田庄(たどころ)を罷(やめ)よ」(『日本書紀』)とあるように、中央地方の諸氏を問わず、各々身分に応じて若干の土地人民を私有していたが、氏族制時代末期になると、首長や豪族の土地獲得の欲求は、主に未墾地の占有、開墾に向けられ、経済的政治的実力をもつ者は、弱小氏族を従え、大陸文化の流入に伴なう新来の農工具、優れた技術の導入によって、占有地の拡大に努力した。当時市内において最も強大な勢力は、恐らく前記千葉国造であろうけれども、現在地名となっているものに蘇我町があり、『和名類聚抄』には、池田郷、物部郷(印旛郡八千代市物井付近か)を載せ、生浜町には大字生実(おゆみ)がある。これらは順次に蘇我氏、池田氏、物部氏、紀氏の田荘(たどころ)があったことを伝えるものかもしれない(註15)。
(武田宗久)
【脚註】
- 『日本書紀』崇神天皇条
- 水野裕『日本古代王朝史論序説』昭和二九年
- 古墳を有力な支配者階級の墓に限定する場合には高塚古墳をいう。
- 「邪馬台国」は誤りで、「邪馬壹国」が正しいとする説もある。古田武彦「邪馬壹国」『史学雑誌』七八―九 昭和四四年
- 小林行雄『古墳時代の研究』昭和三六年。同『民族の起源』昭和四七年
- 西嶋定生「古墳出現の国際的契機」『日本の考古学』月報4 昭和四一年
- 千葉県印旛郡四街道町物井の千代田遺跡の方形周溝遺構では、須恵器の出土が報ぜられているから、古墳時代後期のものもあることが知られる。四街道千代田遺跡調査会『千代田遺跡』昭和四七年
- 原目山遺跡の方形周溝墓は一号~三号まであり、一号は方形の盛土・単独埋葬、副葬品多数。二号~三号は盛土がなく数基の土壙墓があったが、副葬品は少なかった。甘粕健「古墳の出現と統一国家の形成」『図説日本の歴史』Ⅰ 二〇一~二〇三ページ 昭和四九年