群列 | 形態 | 数 | |||
前方後円 | 方墳 | 円墳 | 横穴 | ||
第一群 | 1 | ||||
3 | |||||
31 | |||||
35 | |||||
第二群 | 1 | ||||
1 | |||||
92 | |||||
94 | |||||
第三群 | 8 | ||||
5 | |||||
159 | |||||
172 | |||||
第四群 | 7 | ||||
1 | |||||
86 | |||||
94 | |||||
第五群 | 1 | ||||
1 | |||||
小計 | 17 | 10 | 369 | ― | 396 |
第一群 | 1 | ||||
1 | |||||
90 | |||||
92 | |||||
第二群 | 4 | ||||
24 | |||||
1 | |||||
29 | |||||
第三群 | 9 | ||||
9 | |||||
小計 | 1 | 5 | 114 | 10 | 130 |
18 | 15 | 483 | 10 | 526 |
いま、それぞれの古墳の所属時期を無視して、形式的にその立地状態を地域別に概観してみると、まず、ほとんどの古墳が標高二〇~四〇メトールの台地上に立地しており、市内においては、二、三の例を除けば、沖積低地に築かれたものはほとんどないといえる。二、三の例外とは、浜野町付近の古絵図に塚跡としてみられるもので、それも果たして古墳時代の墳墓か、後世の供養塚などに類するものかは、その形跡さえ残っていない現在では確かめるすべもないのである。
さて、五二六基のうち、東京湾沿岸に面する台地上に立地するものが三九六基を占め、内陸部に立地するものは、わずかに一三〇基、沿岸部の三分の一にも満たない。
これを古墳の形態別にみると、東京湾沿岸では、前方後円墳は一七基、方墳は一〇基であるが、円墳は、直径二~三メートルの小円墳を含めると、実に三六九基、全体の九割以上を占めている。
内陸部においては、前方後円墳一基、方墳五基に対して、円墳は一一四基を数え、全体の約八八パーセントを占めている。なお、内陸部の小食土町には、大網方面から開析された谷津に面する舌状台地の中腹部に、地山の砂岩をくり抜いた横穴群が二カ所、計九基が、確認されている。しかし、東京湾沿岸では、まだ横穴の存在は知られていない。ただ、村田川の源泉地に当たる大椎町の大椎城址の中腹部に一基、横穴の所在が確認されているにすぎない。
これらの分布状態を、更に細かく分析すれば、当時の生産基盤であり、古墳築造の背景となった水田や河川によって、その立地を、次のような八つのグループに分けることができる。
東京湾沿岸地域
第一群 浜田川、花見川及び宮野木谷周辺
第二群 葭川流域
第三群 都川流域
第四群 都川と村田川に挾まれ、東京湾に面した台地上
第五群 村田川流域
内陸奥部地域
第一群 鹿島川流域
第二群 村田川上流
第三群 太平洋側よりの開析谷縁辺
このおのおのの地域における古墳の分布状態は、二―二二表のとおりである。
このように、市内における古墳の立地の様相は、東京湾沿岸に偏在し、特に、市内を貫通する都川及び葭川流域に集中しており、この二つの流域だけでもその数は二六六基に及び、全体の半分以上を占めている。
それに次いで、都川と村田川とに挾まれた細長い洪積台地上、特に村田川によって開析された広い沖積平野に面した生実町、有吉町、椎名崎町周辺の台地上には、方墳や前方後円墳を含む九五基が集中している。
これに対して、内陸奥部においては、鹿島川流域には、都川や葭川に比べて水田可耕面積がはるかに広いにもかかわらず、古墳の数はわずかに九二基を数えるにすぎない。しかも、そのほとんどが小規模な円墳群からなり、方墳や前方後円墳はきわめて乏しい(二―二二表)。