a 前方後円墳の様相

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 後期前方後円墳の分布は、前述のとおり、葭川・都川流域と、生実町周辺の東京湾に直面する細長い台地上に密集しており、市内における総数二〇基のうち、このブロックだけで実に一八基を数える。これらはほとんどの場合、単独では存在せず、円墳五~一〇基の中に、一~二基の割合で存在する。しかし、中原古墳群の場合は特別で三基の前方後円墳が存在する。前方後円墳の年代的序列については、今までのところ発掘調査資料が少なく判然としない。
 また、これらの規模についてみると、主軸長三〇~三五メートルの中型のものがもっとも多く、確認されたものは一〇基(新山古墳群二基、多部田古墳群一基、中原古墳群二基、八人塚古墳群一基、椎名崎古墳群一基、にとな古墳群一基、舟塚古墳一基、鷲塚古墳一基)を数え、主軸長四五メートル以上の大型のものはわずか二基(狐塚古墳=五五メートル、人形塚古墳=四七メートル)しかなく、残り八基は墳丘部欠損、あるいは湮滅により規模不明である。
 これらの前方後円墳は、地域的に六つのグループに分けることができる。北から見てみると、第一グループは一基のみで鉄砲塚古墳群の中に位置するものである。第二グループは鷲塚古墳、第三グループは新山古墳群に属する二基、第四グループは多部田古墳群に属する一基である。第五グループは塚原古墳群、中原古墳群などに属する五基である。第六グループは八人塚古墳群・椎名崎古墳群・にとな古墳群などに属する四基と瓢箪塚古墳の計五基で構成される。そして、第七グループには舟塚古墳がある。
 このような前方後円墳の展開は、必ずしも、群集墳の分布傾向とは一致しないのであり、当時の支配関係や、豪族と豪族との関係の複雑さを物語っているといえる。
 ここで、千葉市内における前方後円墳の発掘調査された一例として、土気町にあった舟塚古墳について概略を述べてみよう。
 この古墳は、古墳分布の稀薄な地域における唯一の前方後円墳として古くから注目されていたが、昭和三十九年に県立青年研修所校舎増築工事により、湮滅した(二―一一五図)。工事に先だって行われた調査によると(註3)、墳丘部は主軸長三七メートル、後円部径一九メートル、高さ三・六メートル、前方部幅二〇・五メートル、高さ三・九メートルを数え、前方部が若干高い典型的な後期古墳の形状を呈していたという。内部施設は、後円部から、前・後二室からなる複式構造の横穴式石室が発見されたが、すでに盗掘されており、副葬品はなかった。中村恵次によれば、この古墳の特色として、墳丘をとりまく二重周溝をあげ、「墳丘規模の縮小化という時代的趨勢の下にありながら、倭少な墳丘に対する視覚的効果の減少を周濠の二重設定によって補い、墓域全体の規模の維持を計っている」と述べている。なお、この古墳の周辺には、円墳二基が現存しているが伝えによると、もと四~五基はあったという。

2―115図 舟塚古墳の主体部(羨道より玄室を望む)