現在、市内で五領式土器を出土する集落遺跡として知られているのは、東寺山町・石神遺跡、宇那谷遺跡、宮崎第一遺、跡の三者のみであり、石神、宇那谷両遺跡では、踏査時に、大量の五領式土器片を採集した。
ついで和泉式土器を出土する遺跡は大森支谷に面する大森第二遺跡など六カ所が確認されている。これらは、すべて大森町から生実町にかけての東京湾に直面する標高三〇メートル前後の台地上に集中している。この和泉式期の集落址群のある台地前方には、ちょうど東京湾から赤井町へ向って入る赤井谷と赤塚谷にはさまれた海へ向って扇形に開いた平坦な台地上に、いわゆる前期古墳の大覚寺山古墳と七廻塚古墳がある。つまり、この地域には、一般庶民の集落址と支配権力の象徴である巨大な墳墓とが、あたかも支配者と被支配者の関係を裏づけるかのごとく存在している。