[中・後期の集落と古墳の様相]

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 中・後期の集落の分布は、二―二四表のように中期二七遺跡、後期六二遺跡と、数では中期の倍以上となる。これは、市内全搬における傾向といえるが、葭川流域の廿五里支谷の周辺は例外で、ここには、中期の集落三(西前原遺跡、石神遺跡、宮腰遺跡)と中期から後期にかけての稲城台遺跡などが集中している。この集落址群に対応する古墳としては、千人塚古墳及び大塚古墳が考えられるが、ともに未調査のため確証はない。
 また後期集落の密集地域としては、まず第一に東京湾沿岸部の千葉寺谷と宮崎谷に面した台地上に、七遺跡(中台遺跡、おわす様遺跡など)、第二に泉谷津と小金沢谷にはさまれた台地上に四遺跡(刈田子遺跡、大金沢遺跡など)があり、前者は観音塚古墳及び荒久古墳を中心にし、後者は人形塚などの前方後円墳を含む椎名崎古墳群をとりまくように分布している。更に平山支谷の奥に立地する中原古墳群や塚原古墳群の周辺台地上にも同時期のものと思われる集落址が点在しており、古墳と集落址との関連を考えるうえで興味深い様相を呈している。
 以上、千葉市内における古墳時代遺跡の分布について概略を述べてきたが、時期的な分布の傾向については、古墳、集落址とも前期に属するものは少なく、ほとんどが中期以後のものである。また古墳と集落の関連については、ある程度は予測できる地域もある。しかし一方、内陸部の鹿島川流域では、集落址は存在するが古墳が少なく、また浜田川・花見川を中心にした東京湾沿岸部の北端においては、古墳は存在するが集落が少ないという現象もみられる。このような地域における古墳と集落の分布状態の相異は、果たしてなにを意味するか興味あるところであるが、これについては現在までのところ、全く推定の域を出ないので、今後の研究に期待したい。

(後藤和民・庄司克)


 【脚註】
  1. 大塚初重『大覚寺山古墳の測量結果について』 昭和四六年
  2. 武田宗久調査
  3. 中村恵次「千葉県山武郡土気町舟塚古墳の調査」『古代』四八号、昭和四二年
  4. 武田宗久『千葉市誌』昭和二八年
  5. 凡天塚古墳(直径四五メートルの円墳)東寺山第一古墳群中にある。
        狐塚古墳、(直径四〇メートルの円墳)大木戸町狐塚古墳群中にある。
  6. 昭和四一年 千葉市加曽利貝塚博物館準備室調査
  7. 昭和四七年 八千代市教育委員会調査