昭和三十三年、生浜中学校の校庭拡張工事のため、千葉市教育委員会の委託をうけた武田宗久によって、記録保存調査が行われた。なお、この古墳の墳頂部には、終戦後に忠霊塔が建てられており、その基壇として利用されていたため、墳丘の形態はすでに旧状を失っていて、正確なことは不明である。ただ、調査当時の状況では、直径五四メートルの円墳をなしていたという。
主体部は墳頂中央にあり、木棺直葬で、副葬品としては、棺内からは鉄製大刀、鉄剣、鉄鉾(ほこ)、鉄鎌、鉄斧、〓(やりがんな)、棺外から青銅製鏡、滑石製釧(くしろ)、琴柱形(ことじがた)滑石製品、臼玉、滑石製模造品(刀子・鎗・斧・鎌)などが出土(口絵第一五図参照)している(註)。これらの出土品からすると、この古墳は、五世紀代に築かれたものと思われる。
なお、この古墳の周辺には、東側の大覚寺支谷に面する縁辺に小円墳群(数基)と、南側の「長山砦」と呼ばれる台地先端部に、直径約三五メートルの円墳が所在し、いわゆる古墳群をなしていた。だが、これらはそれぞれ所属時期を異にしていると思われ、これらを一括して「七廻塚古墳群」とすることは、いささか問題がある。しかも、この七廻塚の周辺には、弥生時代中期に属する土器片が散在していたという。しかし、加曽利貝塚博物館の踏査では、弥生式土器は認められず、むしろ、古墳時代の前期・五領式と思われる土器片が採集されている。
2―119図 七廻塚古墳(上 全景・下 青銅製鏡)
【脚註】
『千葉市の文化財』千葉市教育委員会