Ⅱ 大覚寺山古墳(生実町大覚寺山所在)

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 東京湾に面して、村田川によって開析された広大な沖積平野がある。この河口平野から湾入する大覚寺支谷の奥に、北から南に突出する幅三〇~五〇メートル、長さ八〇メートルの狭小な舌状台地があり、その台上にこの大覚寺山古墳が立地する。
 この舌状台地は、中世城郭の長山砦と南生実城址との中間にあり、上総国と下総国との国境をなす村田川の北岸に当たり、おそらくは、中世において「物見台」などに活用されていたものと思われる。
 七廻塚古墳のすぐ近くにありながら、従来その所在に気がつかず、昭和四十四年、宅地造成のため土地業者に買収され、立木が伐採された。その近隣に在住する千葉東高校教諭田野英夫によって、この丘陵が前方後円墳であることが認められた。その後、後円部墳丘傾斜面の東・西両側が、やや直線的な稜線を示すことから、あるいは前方後方墳の可能性も考えられ、早速、加曽利貝塚博物館と明治大学考古学研究室とによって、厳密な測量調査を行った。その結果、次のようなことが判明した。
 墳丘の規模は、後円部径三〇~三五メートル、高さ五・五メートル、前方部幅二五メートル、全長六二メートル、後円部の前方部との比高一・四メートルをはかる。後円部は正円ではなく、やや卵形に近い楕円形を呈している。
 後円部の楕円化は築造頭初からの設計であり、むしろ、このような形態をとらざるをえなかったと思われる。すなわち、選ばれた舌状台地があまりに狭長であったので、全体を大きくみせるため、わざわざ、全体を細長く引き伸ばしたのである。
 長軸の方位を南々東から北々西にとり、前方部を北に向けているのは、地形そのものの条件に制約された結果であると考えられる。

2―120図 大覚寺山古墳及びその周辺の地形測量図

 この古墳は、前後両丘の比高差が少なく、前方部の先端が幅広く広がることから、あるいは、やや新らしい形ともみられる。だが、比高差が少ないのは、前方部を台地基部に向け、後円部を台地先端部に向けているからである。また前方部が先端で急な開き方をするのは、古墳時代前期前半の古墳の特色ともされている。むしろ、自然地形を利用して、その狭長な舌状台地いっぱいに墳丘を築き、しかも前方部を台地に向けている。これは低地からの眺望を考慮したものと考えられ、やはり古式古墳に属するものとみるべきであろう。
 また、全長六二メートルという規模は、関東各地で知られる古式古墳の範疇に含まれるものである。かつ、最近測量されて前方後円墳であることが判明した長生郡長南町能満寺(のうまんじ)古墳(全長七四メートル)と、形態が類似している。また隣在する七廻塚古墳が五世紀代に比定されるとすれば、前述したこととあわせて考えると、この古墳は、四世紀末ないし五世紀初頭、おそくとも五世紀代前半に位置づけることができる。
 同じ古墳時代前期前半に属する能満寺古墳と大覚寺山古墳とが、近似した形態を示していることなどは、のちにこの古墳を含む地域が「菊間国」の領域内に包括され、菊間国造が設定されたことと密接な関係をもつ。つまり、東国における統一的政権の確立とともに、古代国家の成立の問題を究明する上で、東京湾東岸におけるこの古墳の存在は、きわめて重要な意義をもっているのである。
 更に、七廻塚古墳、亀田遺跡、東堀遺跡など、隣在する前期遺跡との関連性、また生浜中学校遺跡、八人塚古墳群、兼塚古墳群、上赤塚古墳群、南二重堀古墳群、森台遺跡などの後期遺跡との関連性、それらを把握することは、一地方豪族の生成―発展―消滅の過程を究明する上に必要であり、とりもなおさず、その背景となった集落の変遷とその生産基盤を究明する上で絶対不可欠な条件でもある。
 周辺部はすでに宅地に造成され、わずかに墳丘のみが保存され、史跡公園として活用されることになった。しかし、孤立した墳丘部だけを単独に確保してみても全く意味がない。周辺の地形や集落遺跡との有機的関連においてこそ、その歴史的意義を追求しうる可能性が秘められている。大覚寺山古墳自体の意義・内容を追求するためにも、支谷及びそれを取り囲む遺跡群の立地する台地は、欠くべからざる歴史的資料であることを忘れてはならない。
  参考 大塚初重『大覚寺山古墳の測量結果について』昭和四六年