荒屋敷支谷の南岸に位置し、その谷頭によって開析された最南端の舌状台地の基部に位置する。水田面との比高は約一五メートルをはかる。同じ台地上の周辺には、兼坂遺跡、聖人塚古墳などがある。
調査は京葉道路第四期工事に伴い、昭和四十七年三月から五月まで行われた。その結果、縄文時代の小型竪穴遺構一基、弥生時代の住居址一戸、そして古墳時代の竪穴住居址が八戸と溝状遺構などが発見された。その古墳時代の住居址のうち、和泉式期は二戸、鬼高式期三戸、真間式期一戸で、ここに古墳前期の集落の存在が確認された。
和泉式期の竪穴住居址の一方は、大きさ、主軸方向共に不明である。他方は、七・三×七メートル、やや正方形に近いプランを示す。床面上には焼土・木炭が全面に見られ、火災家屋であることがわかる。出土遺物は土師器(甕(かめ)・坩(かん)・坏(つき)・鉢・高坏・片口形土器)、砥石、刀子である。
鬼高式期の住居址は、一辺五・五メートルのもの一戸、一辺約六・五メートルのもの二戸で、いずれも正方形に近いプランを示す。そのうち二戸は、床面上に、焼土、灰、木炭などが散乱しており、火災によって廃棄されたものと考えられる。出土遺物は、土師式土器、須恵器(甕・坏・〓(まり))、土製支脚、土製勾玉、土錘、土製管玉、土玉、土製小玉、砥石、磨石(すりいし)、くぼみ石である。
真間式期の住居址は、四・四×四・五メートル、正方形に近いプランを示し、北壁部にカマドを有する。床面上には焼土、灰、木炭が見られ、火災によって廃棄されたものと考えられる。出土遺物は、土師器(坏)、手捏(てづくね)土器、磨石である。
調査が工区内に限られた記録保存であるため、遺構の展開などは予想しえないが、古墳時代前期から後期に至る集落遺跡であり、聖人塚古墳など周辺の古墳との関係が予想される。
調査の結果は、すでに報告されている(註)。
【脚註】
『京葉』千葉県都市公社 昭和四八年