Ⅲ 宮崎第一遺跡(宮崎町所在)

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 東京湾から内陸に向って開析された千葉寺谷及び宮崎谷に挾まれた、大きな舌状台地の基部に位置し、宮崎谷に面して立地する。
 昭和四十五年八月、加曽利貝塚博物館によって発見され、昭和四十六年八月、京葉道路延長工事に伴う緊急調査が千葉県都市公社によって行われた。この遺跡から、五領式から国分式にいたる古墳時代のほとんど全時期にわたる遺物が出土している。
 発見された竪穴住居址は、五領式期六戸、鬼高式期五戸、真間式期七戸、国分式期二七戸、時期不明三戸の計四八戸であった(二―一二一図)。

2―121図 宮崎第1遺跡における竪穴住居址の分布   (『京葉』)

 五領式期の住居址は、隅丸方形プランを示し、一辺五~七メトールのものが五戸、四・六×四・六メートル一戸である。出土遺物は、土師式器(壺・甕(かめ)・鉢・高坏(つき)・器台(きだい)・〓(わん)・甑(こしき))、土玉、土錘、砥石である。
 鬼高式期の住居址は、四・三~六メートルの方形を示す例が多く、ほかに八・七×八・五メートルが一戸ある。出土遺物は、土師式土器、須恵器(甕・坏・蓋・高坏・甑)、刻線を有する軽石、砥石、土玉、金環、小玉、刀子、鎌、手捏(てづくね)土器、鉄製の環などである。
 真間式期の住居址は、ほとんどが方形プランを呈し、一辺が三~四・五メートルのもの六戸、五・四×五・七メートルのもの一戸、前者のうちの一戸は建て直されて五・六×五・三メートルであった。出土遺物は、土師器、須恵器(甕・坏・壺・蓋)、土製支脚、砥石、鉄釘、刀子、鉄鎌、磨石、鉄釦(てっこう)、鉄滓(てっさい)などである。
 国分式期の住居址は、一辺四メートル以下のものが一九戸で、四~五メートルのもの六戸、四×五メートルのやや長方形を呈するもの二戸である。発見されたうち最大のものは四・七×四・七メートルであり、最小のものは二・七五×二・五メートルである。ほとんどが方形プランを呈するが、一戸だけが隅丸方形であった。出土遺物は、土師式土器・須恵器(甕・坏・蓋・甑・壺・皿・高坏、鉢)、砥石、浮子、円面硯、紡錘車、軽石、鉄釘、刀子、鉄鎌、磨石、土製支脚などであり、また墨書土器も見られた。ほとんどの住居址から甕形土器・坏形土器が出土しているが、そのいずれも出土しないもの二戸と、甕形土器のみを出土したもの一戸だけが例外で、それらはいずれも一辺三メートル前後の小型住居址に限られていた。
 以上の結果は、あくまでも工事区域内に限られた局部的調査のため、これによって集落展開の様相などはとうてい予測しえない。しかし時期が降るにしたがって、住居址の規模が次第に小型化し、均等化してゆく傾向だけは認められる。
 本遺跡に、隣接して宮崎第二遺跡があり、また谷津をへだてた対岸に、大森第一遺跡、大森第二遺跡が所在している。また樹枝状に入り組んだ谷津によって刻まれた舌状台地上には多くの古墳群が展開しており、これらの遺跡との間に、密接な関係があったものと予想される。
 現在のところ、千葉市内においては、この遺跡が五領期における唯一の集落址であり、古墳発生期におけるきわめて貴重な発掘例である。しかし、それを、道路建設区域内だけを、ブルドーザーで発掘するといった、きわめて無暴な方法で形式的に処理していることは、遺跡の価値も、歴史の何たるかも知らぬ者の破壊的行為といわねばならない(註)。
 【脚註】
 『京葉』千葉県都市公社 昭和四八年