宮崎谷に突出した二つの凹字形を示す舌状台地上に位置し、南側を大森支谷によって挾まれている。房総東線蘇我駅の東方約一・六キロメートルの台地上にある。
昭和四十五年八月、加曽利貝塚博物館によって発見されたが、昭和四十七年五~七月、京葉道路延長工事に伴う緊急調査として、千葉県都市公社が発掘し、湮滅した。このとき、和泉式期から国分式期にいたる古墳時代の竪穴住居跡が三二戸発見され、この遺跡が長期にわたる大集落址であることを立証した。
和泉式期の住居址は、一辺五~六・五メートルのもの二戸、一辺八メートルのもの一戸の計三戸が確認されたが、完掘されたのは一戸のみである。完掘された住居址は、北寄りに炉をもち、主柱穴四、周溝が全周している。出土遺物は、土師器(甕・壺・鉢・坩・坏・高坏・〓)、石製模造品(有孔円板・管玉・臼玉)、土玉、土錘などである。
鬼高式期の住居址は、一辺六~八・五メートルのもの三戸である。最大規模のもの一戸はほかの住居址と重複していて詳細は不明であるが、これらはいずれも北壁にカマドを伴っていた。平面プランは、方形、不整方形、長方形と、統一した傾向を示さない。出土遺物は、土師式土器・須恵器(甕・鉢・坏・蓋)、石製模造品(有孔円板・剣形品・臼玉)、土玉、刀子(とうす)などである。
真間式期の住居址は、一辺四・五~五・五メートルのものが七戸、四×三・七メートルのもの一戸、三×二・九メートルのもの一戸の計九戸であった。いずれも北壁にカマドをもつ。平面プランは方形を基本にしていたと思われるが、不整方形・長方形を示すものが三戸ある。出土遺物は、土師式土器・須恵器(甕・鉢・坏・蓋)、鉄鏃、土玉、土製支脚、刀子、鉄鎌、紡錘車、土錘、石製模造品(有孔円板・剣形品)などである。
国分式期の住居址は、一辺三メートル以下のもの六戸、三~四メートル位のもの八戸、四・五×四・二メートル一戸、五×四・八メートル一戸、未完掘であるが一辺五・四メートルのもの一戸、計一七戸であった。出土遺物は、土師器・須恵器(甕・坏・甑・鉢・蓋・壺・耳皿)、手捏土器、土玉、砥石、土製支脚、石製模造品(有孔円盤・剣形品)、紡錘車、刀子、鉄鎌、鉄鏃、吹子(ふいご)などである。なお石製模造品は、いずれも五メートル前後の住居址より出土している。
住居址の規模は、和泉式期から鬼高式期にかけてはあまり変化せず、一辺五メートルから八メートルを超えるが、真間式期になると、四・五前後から五・五メートル前後のものが主となり、国分式期になると、二・五メートルから四メートル前後のものが大部分となる。
本遺跡の北方には、谷津を挾んで宮崎第一遺跡、南方約八百メートルに大森第二遺跡が所在する。また、仁戸名古墳群、赤井古墳群、榎作古墳群、大巌寺裏古墳群、瓜作古墳群などが所在する。
なお調査の詳細は、千葉県都市公社より報告されている(註)。
【脚註】
『京葉』千葉県都市公社 昭和四八年