昭和四十二年十一月、この丘陵の南側縁辺で土取り工事があり、その削られた断面に住居址が露呈しているのを、警邏中の日色義忠が発見。その通報を受けた筆者らが早速試掘を行った。
住居址は、試掘溝北端でほかの住居址と重複しており、しかも、すでにその過半は破壊されていた。その残された範囲では、ほぼ隅丸方形のプランを示していたが、全体の様相は不明である。
2―122図 大森第2遺跡における遺構の分布 (『京葉』)
遺物は、住居址東南隅にある柱穴状ピットをとりまくように、土師式土器八個が一括して発見された。甕形土器(三個体)は、口縁部が「く」の字形に外反し、胴部が球形である。坩形土器(二個体)は、口縁部断面が「S」形を示し、胴部が球形ないしそろばん玉状で、丹彩されている。高坏形土器(三個体)の坏部は、口縁が外方に開いた皿形を示し、中空で中ふくらみのある脚部とほぞで接合されており、全面に丹彩されている。
これらの土器は和泉式の範疇に含まれるもので、この住居址は、ほぼ五世紀と推定される(註1)。
昭和四十六年十月から翌年一月にかけて、京葉道路第四期工事に伴う緊急発掘調査が千葉県都市公社によって行われた。その結果、住居址九〇戸をはじめ、土壙、貝ブロックなどが発見されている。このうち古墳時代に属する住居址は六九戸である。
和泉式期の住居址は、一辺五メートル未満のもの四戸、五~六メートルのもの一一戸、六~七メートルのもの九戸、七メートル以上のもの四戸、規模不明のもの五戸の計三三戸であった。出土遺物は、土師式土器・須恵器(〓・坏(つき)・甑(こしき)・壺・甕(かめ)・蓋(ふた)・鉢・高坏・坩(かん))、石製模造品(勾玉・臼玉・円板・有孔円板・管玉・棗(なつめ)玉・剣形品・子持勾玉)、軽石、手捏(てづくね)土器、土錘、砥石、紡錘車、土製管玉、刀子、鉄鎌、鈎針状鉄製品、土玉、土製小玉などである。前述した昭和四十二年の調査と併せると、この台地は、和泉式期の大集落であることが予想される。
鬼高式期の住居址は四戸で、いずれも、一辺五~六・五メートルほどの規模である。出土遺物は、土師式土器・須恵器(甑・鉢・坏・器台・蓋・甕・高坏・坩・〓)、土錘、軽石、土玉、管玉、石製模造品(臼玉)、砥石などである。
真間式期の住居址は、ほとんど四~六メートルで、六・五×六・三八メートルの一戸は例外で、計一一戸を数える。カマドは、北側三分の一が攪乱されていて確認できなかった一戸を除いて、いずれも北壁にあり、この時期の傾向を物語っている。出土遺物は、土師式土器・須恵器(甕・坏・蓋)、土玉、土製支脚、管玉、臼玉、凹石、鉄鏃、鉄鎌、刀子、鉄球、鉄斧、鉄矛(ほこ)、軸棒などである。鉄製品の伴出が顕著であり、一一戸のうち七戸から発見されている。
国分式期の住居址は、一辺三メートル未満のもの五戸、三~四メートルのもの一三戸、四・四×三・八メートル一戸、規模不明二戸の計二一戸であった。出土遺物は、土師式土器・須恵器(甕・坏・甑・壺・高坏・坩)、打製石刃、片刃石斧、砥石、土玉、紡錘車、鉄鏃、鉄鎌、刀子、軸棒、円盤、直刀、土錘などである。カマドは、基本的には北壁と考えられるが、例外が五戸、不明のもの四戸があった。
住居址の規模は、和泉式期から国分式期にかけて、次第に小型化する傾向を示すが、和泉式期と鬼高式期とではそれほどの差はみられない。
以上のように、この遺跡は、千葉市内には乏しい弥生中期と古墳前期の集落を含む貴重な遺跡である。しかも、この周辺に分布している古墳群や集落址の様相をみると、当時の集落の変遷や、古墳群と集落との関係を解明しうる大きな可能性を秘めている。
にもかかわらず、これら遺跡群の一端が、道路建設によって破壊されたことは、ただ単に千葉市や千葉県の損失のみならず、日本の歴史研究や歴史教育の上で、大きな悔恨を残すことになるであろう。
なお、この遺跡の道路建設部分における発掘調査については、千葉県都市公社より概報がでている(註2)。
【脚註】
- 後藤和民「西の花遺跡」『土師式土器集成』本編1 昭和四六年
- 『京葉』千葉県都市公社 昭和四八年