Ⅱ 兼坂周溝遺構群(都町兼坂所在)

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 都町の延命寺から東にのびる支谷の先端が二又に分かれ、一つの舌状台地を構成しており、その基部にこの遺構群が展開していた。
 昭和四十五年八月、加曽利貝塚博物館によって、縄文後期の集落として発見されたが、昭和四十七年一~二月、京葉道路延長工事に伴う緊急調査の結果、工事区域内では、古墳時代の周溝遺構五基、溝状遺構一基、土壙二基が発見された。
 第一号周溝は、外縁で、南北辺一二メートル、東西辺一一・六メートル、内縁で南北辺一〇メートル、東西辺九・六メートル、深さ平均〇・六メートルを測り、平面形は方形を呈する。中央部から一カ所、周溝内から二カ所の土壙が検出されており、前者が、古墳の内部主体と考えられる。内部主体は、周溝の長軸線とほぼ平行しており、外壙と内壙の二段に分けられる。内壙の東縁などに粘土塊が認められた。
 第二号周溝は、外縁で南北辺一〇・四メートル、東西辺一二メートル、内縁で南北辺七・六メートル、東西辺九メートルをはかる。中央部から一カ所、周溝内から一カ所土壙が確認された。内部主体は前者で、内壙と外壙に分かれる。内壙床面で縁辺に沿って粘土塊が認められた。
 第三号周溝は、径一二・八メートルの正円形のプランを示す。内部構造は確認されず、出土遺物も、周溝内から出土した甕形土器のみであった。
 第四号周溝は、外周で径南北一九メートル、東西一八・五メートルの円形プランを示す。内部主体と考えられるものは認められず、出土遺物は坏が二点であった。
 第六号周溝(二―一二三図)は、外縁で北辺六・八メートル、東辺六・六メートル、南辺八・六メートル、西辺六・八メートル、内縁で北辺五・五メートル、東辺五・二メートル、南辺五・七メートル、西辺五・四メートルをはかり、隅丸方形を示す。内部主体らしい遺構は検出されなかったが、遺物としては周溝内より五領式に属する小型の壺形土器が出土している(註1)。

2―123図 兼坂周溝遺構群より検出された方形周溝墓
   (『京葉』)

 第一号・第二号は、ともに遺物が認められなかったが、規模・構造において共通性をもつ。主体部と考えられる土壙内に箱式木棺ないし組み合わせ式木棺をおさめ、粘土でその接合部を封じたものと考えられる。一種の粘土槨(註2)ともいえる木棺直葬で、市内報告例では中原古墳群に類例がみられる。
 第三号・第四号は、出土遺物から鬼高式の古い時期に相当すると考えられる。
 周辺には、古墳時代の集落遺跡である車坂遺跡、北西側台地に古墳、また谷津を挾んで東南約一二〇メートルに聖人塚古墳などが存在し、きわめて密接な関係が予想される。
 【脚註】
  1. 『京葉』千葉県都市公社 昭和四八年
  2. 甘粕健・久保哲三「古墳文化の地域的特色―関東」『日本の考古学』Ⅳ 昭和四一年