後世の攪乱によってその大半を消失。その周溝を確認するため、数本のトレンチを入れたが、明確な形態はついに把握できなかった。この古墳群の土地所有者田野敏夫氏の話によると、第二号墳の中央くびれ部から、組み合わせ式箱型石棺が、明治年間に掘り出されたことがあり、その石棺の一部が庭石として残っているが、その大半は持ち去られてしまったという。この庭石は、黒雲母片岩による、明らかに組み合わせ式箱型石棺の蓋石である。しかしおそらくこれは第二号墳の主体部ではなく、第三号墳の主体部であった可能性が強い。
第三号墳は、明治年間にある種の土木工事によって削平されたらしく、その際、ローム層中に埋納されていた組み合わせ式箱型石棺まで掘り上げられたものと思われる。