第二号墳

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 すでに盗掘されたと思われる大きな攪乱があり、また、後円部と前方部の東側くびれ部に一本の背の高い椎の木があり、その根本に道祖神を祭ったほこらが安置されていた。
 結局この古墳も、すでに主体部は破壊されていたわけで、この古墳群からは、なんらの遺物も出土しなかった。しかし、五〇×八〇メートルという狭い範囲に、前方後円墳二基、円墳一基が所在していたことは、それ自体で意義をもつものである。特に、都川本谷北側台地上に存在する前方後円墳は、この新山古墳群の二基のみであり、南側台地上を含めても、多部田古墳群の一基、計三基である。
 このことは、加曽利支谷を挾んで西側台地上に所在する兼坂古墳群、御所ケ原古墳群、和田古墳群などとの関連が問題となる。また、小さな谷頭を挾んで辺田前古墳群、古山支谷を挾んで坂月古墳群などが所在し、これらの円墳群に埋葬された人々の相互関係、支配関係を知る上では、重要な意義をもつものである。
 なお調査において、この古墳群の周辺は、北側に続く台地平坦部より、約〇・五~一メートルほど低くなっており、更に、古墳時代の地表面は、第一号墳、第二号墳の封土下にのみ残されていた。このことより、墳丘は、周辺の旧地表面の土をかき寄せて、盛り上げたと考えられる。更に、第一号墳の墳丘くびれ部より竪穴住居址が発見された。この住居址は鬼高式期のものであるが、その過半は、すでに古墳の周溝によって破壊されていた。したがって、この第一号墳は、少なくとも鬼高式期以降の後期古墳であることは明らかである。