東京湾から湾入する千葉寺谷の最奥部に位置し、現在、畜産試験場内に保存されている。
墳丘部は、現在一辺九メートルの方形で残存しているが、周溝部をみると、一辺二〇メートルに達していたと思われる。俗に「石の唐戸」と呼ばれ、切石の横穴式石室を有する。この古墳は、明治二十四年に発掘されているが、内部から発見された遺物の多くは散逸して、詳細は不明である。その後の調査では、一体分の人骨、琥珀製棗玉三個と鉄製馬具が発見されている。
石室の構造は、極めて短かい羨道(せんどう)と、長梯形の平面を呈する玄室(げんしつ)とからなり、両者は石門によって区画されている。玄室は、長さ二・〇七メートル、奥壁の幅一・四メートル、入口の幅一・二メートルである。石材はすべて凝灰質性砂岩の截石を平滑にしたもので、側面は胴張式に平積みにして、上部には六枚の巨石を横にわたしている。奥壁は大きな一枚石と小さな石材一枚を積む。羨道両側と石門の両袖とには、各々小さい截石の上に長方形の大きな一枚石を縦に配置する。玄室の床面は粘土をしきつめ、石門に接する両隅に排水口を設け、石門の入口には三個の截石を積み重ねて室内を閉鎖していた。
石室底部の位置は封土周辺の地表面とだいたい同じ高さにあり、奥壁を北側にし、羨道を南にして開口する。遺骸は玄室の床面上に設けられた木棺の中に安置されてあったと考えられる。
以上のように、この古墳は、墳丘の外形、石室の構造など、大陸墓制の影響を強くうけている。例えば、截石を縦ないし横に積み、石門をつくり、排水口を設け、短い羨道を附加するなどは大陸墓制の特徴で、それはまた、古墳時代最終末の様相を示しているともいえる(註)。
【脚註】
武田宗久「原始社会」『千葉市誌』千葉市 昭和二八年