調査当初の表面的観察やボーリングによる予備調査の時点では、第二~八号墳のいくつかは、相互の周溝が切り合い、その築造年代に多少の前後関係が認められると予測していた。ところが発掘調査の結果、わずか一メートルの間隙しかなくても、決して相互の切り合いのないことが認められた。
このことは、各古墳の築造が、随時無計画に行われたものではなく、あらかじめ第二号墳から第八号墳までを設置する計画設計がなされていたことを物語っている。
しかも、この古墳群の墳丘部周辺には、当時の旧表土は発見されず、ただ墳丘の盛土の下面においてのみ認められるにすぎない。この旧地表面を総括してみると、その地形は比較的平坦であり、現在の地表面より平均約一メートルほど高い。このことから、墳丘築造にあたっては、古墳の計画プランの縄張りの周辺を、かなり広範囲にわたって削り、その土をかき寄せて盛り上げたものと考えられる。
更に墳丘部の断面を詳細に分析した結果、次のような興味ある事実を発見することができた。
墳丘のプランは、周溝部の内側の旧地表面上に、まず円形の縄張りが引かれ、その外側周辺の旧表土が削られ、その土が縄張りの縁辺から積み上げられる。しかも常に、外縁部から中央部へとスリバチ状に流し込まれている。そして周溝部は一番最後に穿鑿され、そのローム質の土は、最終的に墳丘の中央部に投入され、それが内部主体を載せる基盤を構成しているのである。
したがって、まず第二号墳から第八号墳までの墳丘部が、周辺の旧表土をかき寄せて築かれ、被葬者が出て、埋葬時になってから、はじめて周溝部が穿鑿され、そのローム質土によって墳頂部が完成された。すなわち、第五号、第七号及び第八号は、まだ被葬者が出現する以前の状態であるとも考えられるのである。
なお、この古墳群の墳丘と墳丘との間には、きわめて狭小な面積でありながら、鬼高式期の住居址が四戸発見され、そのすべてが、わざと放火したように、床面におびただしい炭化物を残していた。ちょうど主体部をもつ古墳の数と一致するので、各被葬者の「もがりや」であったとも考えられる。