内部主体は、墳丘のほぼ中央、墳頂下約一メートルの封土中に直接掘りこまれた土壙である。残念ながら、墳頂部より盗掘による攪乱があり、全貌を明らかにすることはできなかった。全長約三メートル、幅〇・七メートル、壁高約〇・四メートルをはかる。盗掘されていたにもかかわらず、西側及び東端部が確認できたのは不幸中の幸いであった。
内部主体には、西端部にテラス状の施設が附加されており、この部分からは、須恵器の大形甕、挂甲(けいこう)、小札(こざね)などが出土した。また内部主体からは、鉄製大刀一振、鉄鏃一本、管玉(くだたま)、刀子一口、鉄釘などが出土した。鉄釘は木棺使用のものと考えられ、この古墳の被葬者が木棺に納められて埋葬されたことを予想させる。大刀は全長約一メートルの平造りで、北側端部より〇・五メートル離れた、東側壁に接して検出された。
第一~三号古墳は、いずれも内部主体の縁辺に沿って粘土が認められる。市内報告例では、中原古墳群や兼坂遺跡などがあるが、これらの内部主体は旧地表面下まで掘りこまれており、相異点がある。粘土槨の一種とも考えられるが(註3)、むしろ木棺の周囲を固定するか、木棺の木口板を押えるためと考えられよう。
竪穴住居址は、四四戸が確認され、そのうち一九戸が発掘されたが、その所属時期は、一六戸が鬼高式期で、三戸が国分式期であった。
鬼高式期と推定された住居址の規模は、一辺三~五メートル九基、五~六メートル六基、六・一二×六・〇二メートル一基であり、出土土器は第三号墳出土土器に極めて類似するものがある。
国分式期の住居址は、四・二四×三・五九メートル、四・九八×四・七三メートル、三・二二×二・八四メートルの三基で、いずれも隅丸方形の平面プランを示す。
遺構の報告は詳細を欠き、かつ未調査の部分があまりに多いので、集落の様相はとうてい把握できない。特にこの遺跡は、狭い台地上に、同時期の古墳群と集落が共存しており、かつその両者の関係が予想されただけに、当時の社会を解明する上で、きわめて重要であった。このような遺跡が、一部分が調査されただけで破壊されたことは、その調査そのものも無意味なものにしてしまう結果となった。しかも教育施設建築のために消滅したとは、皮肉なことである。
花輪本谷とその支谷に突出した舌状台地上には、この遺跡の南方に榎作古墳群・向台遺跡・桜井戸遺跡、西方に栗山遺跡・赤井古墳群、西の花遺跡、北方に瓜作古墳群・花輪遺跡などが存在する。各舌状台地上に、古墳群ないしは集落、あるいは両者が必らず存在しており、それらの有機的関連は、当時の社会を解明する上で、きわめて重要である。
【脚註】
- 『にとな』仁戸名古墳群発掘調査団 昭和四七年
- 『上総国女坂第1号方形墳』南総郷土文化研究会 昭和四四年
- 甘粕健・久保哲三「古墳文化の地域的特色(関東)」『日本の考古学』Ⅳ 昭和四一年