東側台地のものは、東西に四基並列しており、いずれも南に向って開口しており、西側台地のものは、五基が散在しており、そのうち四基は西に向って開口し、一基は地点も離れており、南に向って開口している。いずれも、この地域特有の砂質岩盤をくりぬいたものであり、その規模・形態は似通っている。いま、東側横穴群のうち、東から二番目の横穴によって、その概略を述べてみる(二―一三一図)。
2―131図 小食土第2号墳実測図
この横穴の前庭部は、入口に中世域郭の腰曲輪状遺構があり、そのために削平された形跡もあって不明であるが、現存の長さは約五・七メートルをはかる。羨道(せんどう)部は、奥ゆき約二・八メートル、幅は奥に進むにしたがって広がり、最奥部で約二・六メートルをはかる。幅壁は、最大約二〇センチメートルほどのオーバーハングを示し、立ち上がり約一・三メートルで玄室(げんしつ)となる。玄室は奥ゆき約二・七メートル、最奥部での幅は約三・二メートル、隔壁部での幅は二・五メートルをはかる。玄室には、主軸方向に二つの屍床が並行して穿たれている。
そのほかの横穴も、形態・規模ともに、これと大同小異であり、その所属時期にも、それほどの差がなかったと思われる。
この種の横穴は、六世紀前半ごろから出現する傾向にあるが、南関東地方においては、七世紀前半から急速に普及している。千葉県下では、この種の横穴は、主に上総地方に集中的に築かれる傾向を示し、千葉市内で知られているのは、このほか大椎町にある大椎城の村田川に面した西側中腹部に一基認められているにすぎない。いずれも太平洋岸側に遍しており、東京湾沿岸では、まだ報告されていない。
この横穴群は未調査であり、出土遺物や屍床形態などの詳細は不明で、年代決定はなしがたい。しかし、その平面プランにおいて、玄室部前面と羨道部最奥部との幅がほぼ同じであることから、そしてほかの遺跡の発掘例から類推して、早くとも八世紀の中葉を上限とする時期のものと仮定すべきであろう。