Ⅰ 稲城台遺跡(東寺山町字稲城台所在)

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 葭川(よしがわ)本谷の中流地点、東側の台地上に位置し、南・北を小支谷によって刻まれ、台地部から本谷に向って突出した舌状台地の先端部に立地している。しかも、その縁辺は直線的に人為的に切り落され、台形の雛壇状に整形されている。
 この台上に、中央部にわずかな空白部を残し、それを囲むように環状の集落が展開していた。すなわち、古墳時代後期から平安時代にかけての、鬼高式期から国分式期にいたる竪穴住居址が百数十戸、複雑に重複して発見された。
 この遺跡は、昭和四十三年から四十四年にかけて、日本住宅公団の宅地造成に伴う緊急調査として、立正大学の丸子亘によって発掘されたが、遺跡の約半分を未調査のまま放棄し、ブルドーザーで削平してしまった。その発掘資料はぼう大な量にのぼり、いくつかの重要な課題を秘めながら、その成果はまだ報告されていない。
 筆者らの数回にわたる現地見学によると、環状集落の中央部には、一辺十数メートルの巨大な住居址が集中し、一般の小型の住居址は縁辺部に展開している傾向が認められた。しかも、真間・国分式期の住居址からは、タタラ址や金糞など、製鉄遺構や遺物が数多く発見された。また、これらの住居址の中には、床面上に堆積した小規模な貝層を伴うものが数戸認められた。しかし、実際の発掘状況は、正確なところ全く不明である。
 なお、この「いなぎ」の地名については、稲置からきているものと思われ、それは大化改新まで、国造(くにのみやつこ)の下で邑(むら)を支配していた県主(あがたぬし)に与えられた、地方官庁の名称であるという説がある。とすれば、この集落は、律令制社会における東国の一地方官の居住した邑であった可能性も考えられ、きわめて興味深いものがある。
 それでなくとも、この遺跡の周辺には、西前原遺跡や東寺山南遺跡が隣接しており、しかも、東寺山古墳群という一大群集墳が、同じ台地続きに控えているのである。これらの集落や古墳群との関連性を把握することもなく、したがって、この遺跡の存在意義も歴史的価値を究明することもなく、すでに湮滅してしまったのである。