Ⅳ 高品第二遺跡(高品町所在)

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 葭川(よしがわ)本谷から分岐した高品支谷の最奥部、西側の台地上に位置しており、支谷から食いこむ谷頭を挾んで、A・B二地点に分かれる。A地点は支谷に面した台地のくびれ部に位置し、台地上一面に土器片の散布がみられ、B地点は狭小な舌状台地の先端部に位置している。
 昭和四十五年八月、加曽利貝塚博物館の分布調査によって発見され、昭和四十六年から四十七年にかけて、京葉道路延長工事に伴う緊急調査が千葉県都市公社によって、その工事区域に限って行われた。
 B地点からは、縄文時代の竪穴住居址一戸が発見されている。直径約四メートルの円形プランを呈し、加曽利EⅢ式土器を出土した。そのほか発見された遺物は、土器は浮島Ⅱ・Ⅲ式、諸磯B式、阿玉台式、加曽利E式、堀之内式、加曽利B式、安行Ⅰ式、石器は磨石一個、掻器一個、石鏃一本であった。
 古墳時代の遺構としては、竪穴住居址や周溝などが発見された。
 A地点からは、竪穴住居址一八戸、墳丘の失われた周溝と考えられるもの五カ所、ピット群などが検出された。竪穴住居址は二つのタイプに分けることができる。一方のタイプは一辺四・五メートル前後、四~五本の柱穴をもつもの一三戸で、うち吹子(ふいご)を出土した二戸を含む五戸からは鉄屑が検出された。もう一つのタイプは、一辺の長さ三メートル前後、柱穴がカマドの反対側に一個だけ存在するもの五戸である。本遺跡では鍛冶址と考えられる遺構は存在せず、またカマド内にも鍛冶の痕跡は認められないが、鉄屑や吹子の出土から、鉄製品が製作されていたことが想定される。
 各住居址の出土遺物は、土師式土器、須恵器(甕(かめ)・坏(つき)・高台付坏(つき)・蓋(ふた)・甑(こしき)・盤(さら)・壺)、手捏(てづくね)土器、鉄製品(刀子・鉄鏃・鉄斧)、石器(軽石・砥石・磨石・石斧・紡錘車(ぼうすいしゃ))などである。これらの住居址は切り合い関係や土器の様相から、時期的に三つのグループに分けられるが、型式では、いずれも真間式から国分式に含まれるものである。
 B地点からは、三・三×三・七メートル、北西壁中央にカマドをもつ竪穴住居址が発見された。出土遺物は土師式土器と須恵器で、国分式土器に相当するが、A地点の住居址群より時期的には新らしい。
 本遺跡の位置する舌状台地上には九基の古墳があり、また廿五里支谷を挾んで東寺山古墳群が存在する。いずれもなんらかの関連があると考えられる。しかし工事区域内に限られた調査であり、これらの遺構の展開も集落としての把握は到底できない。
 この集落においては、特に鉄製品の生産の存否が問題となるが、いかに表土層が攪乱されていても、その下の遺物や遺構の出土状態を把握するためには、慎重な調査が必要である。それをブルドーザーなどの重機類によって上層部を削除する調査法は、結局遺跡の内容も性格も把握しえない破壊に等しいことは、その報告書が如実に物語っている(註)。
 
 【脚註】
 『京葉』千葉県都市公社 昭和四八年