都川支谷から分岐して北へ侵入する古山支谷が、更に分岐して形成した舌状台地縁辺に展開している。この舌状台地上には、縄文時代早期から晩期にいたる、大集落址である加曽利貝塚が存在している。この遺跡は、その加曽利貝塚の遺跡限界確認予備調査によって発見されたものである(註)。
昭和四十四年、京葉道路延長計画に伴い、その路線区域内に、かねて都町所在の「千葉都園」(老人ホーム)がかかり、その移転先として、加曽利貝塚の南側及び東側傾斜面が決定した。しかしこの区域は、以前より加曽利貝塚の遺跡範囲内として、すでに注目されていた。
そこで、遺跡範囲内であるか否かの考古学的実証のため、昭和四十五年八~九月に第一次、昭和四十六年二~三月に第二次予備調査が、遺跡限界確認調査として行われた。その結果、縄文時代の住居址群とともに、古墳時代の集落が重複して存在することをはじめて確認することができた。