第一号住居址

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 南貝塚の南側平坦部において発見。南北六・五メートル、東西五・八メートルで、南端に台形の張り出しを有し、長方形プランを呈する。張り出し部を含むと、南北の長軸は七・二メートルをはかる。壁高は、住居址南端で〇・五メートル、北端で〇・九メートルをはかり、ほぼ垂直に掘り込まれていた。
 カマドは北壁の中央部にあり、少量の土器片がつきささっていた。柱穴は四隅に四本、ほぼ等間隔に配置され、形態・規模もほとんど同じである。周溝は、北壁中央部のカマド付近で一部切れているほか、全面にめぐっている。
 ハードロームを約一メートルほど掘り込んでおり、床面直上には、焼土が厚くブロック状に堆積していた。しかし炭化物は発見されず、わずかに黒色有機質土の堆積がみられたのみであった。
 出土遺物は、土製支脚、刀子、坏(須恵器)、土玉などであり、ほかに土師式土器の破片が出土した。これらの遺物から、この住居址は真間式期に属することが判明している(二―一三五図)。

2―135図 京願台遺跡の竪穴住居址 (加曽利貝塚調査団)

 なお、この平坦部からは、このほかに、第二号、第三号、第四号計四戸の住居址が確認されたが、老人ホーム建設用地として不適であるとの結論を得たので、残る三戸は未発掘のままである。
 第二次調査における、東側傾斜面の発掘調査でも、鬼高式期の竪穴住居址が発見された。
 これらのことから、この舌状台地縁辺には、広く古墳時代後期の集落が展開していることがわかった。
 この遺跡の周辺には、加曽利支谷に面して、花輪遺跡が存在するのみで、同時期の集落の存在は認められない。古山支谷を挾んだ対岸台地上で、須恵器の蓋が発見されたが、綿密な踏査にもかかわらず、集落址としての可能性を確認するにはいたらなかった。ただ、すでに宅地造成が行われて破壊されているが、南側対岸台地上から、土師式土器が採集されている。
 東側対岸の台地は、その縁辺部の遺構から、中世城郭として活用された可能性があり、そのための消滅とも考えられる。なお、この周辺にも、広く古墳時代の集落の存在が予想されているが、宅地造成が急速に進んでおり、早急に分布調査を行う必要がある。
 
 【脚註】
 『昭和四五年度加曽利貝塚遺跡限界確認予備調査報告』加曽利貝塚調査団 昭和四六年