和泉式期の住居址は、今のところ幕張町上ノ台遺跡、貝塚町車坂遺跡、大宮町東五郎遺跡、星久喜町星久喜遺跡(琶把首台遺跡)、大森町大森第一遺跡、同町大森第二遺跡(西ノ花遺跡)などが報告されている。星久喜遺跡の第一号住居址は八・五×八・二メートルの大形のものであったが(註3)、ここでもカマドは依然として設置されず、次の鬼高式期になってから出現する。しかし、貯蔵穴(食物貯蔵用の施設)はすでに宮脇遺跡の第一三号、宮崎第一遺跡の第四号、第五号B・第八号A・第一五号などの五領式期の住居址に発見され、和泉式期になると一般化することや、同じ住居内に住む人々の座席の固定化を暗示する間仕切りやベッド状床が、前記宮崎第一遺跡の第八号A住居址に設置され、和泉式期以後に往々見られることは、族長に率いられ、共同生活をしていた集落内の家々が、次第に自律化の方向をたどっていたことを示唆するものであろう。