幕張町上ノ台遺跡では、和泉式期に、滑石製模造品の製作に従事した玉作集団の竪穴式工房址が五戸発掘された。そのうち三戸についての報告によると(註4)、第一号・第二号・第三号で発見された滑石関係の遺物は、臼玉・勾玉・有孔円板・剣形品などの完成品・未完成品・原石・剥片・屑片・紡錘車などであって、その製作工程は、荒割―形割―側面打裂(側面切削)―研磨―穿孔―整形―仕上げである。これらの技法は茨城県稲敷郡江戸崎町桑山・上の台遺跡、千葉県香取郡下総町大和田・治部台・稲荷峰・大日台遺跡、成田市八代・戸崎・花内西方・大竹遺跡などで発見された、五領式期の碧玉質玉作集団の流れをくむ、滑石製玉作集団が伝承したもので、和泉式期になると、彼らは霞ケ浦西南岸から印旛・手貿沼周辺、船橋市から千葉市の東京湾東岸にかけて分散定住し、各地域の首長や豪族・有力神社などに隷属した玉作集団となり、求めに応じて祭祀製品や古墳の副葬品を作って貢献したと思われる。香取郡下総町東明神山・同郡東庄町前山、船橋市夏見台・同市田喜野井町外原など、同類の製品を出土した遺跡をみると、鬼高式期の前半のころまで存在していた模様であるが(註5)、その原材を何処から採取したかについては、今後の検討がのぞまれる。
2―142図 滑石製勾玉の側面切削工程(上ノ台遺第2号住居址出土)
―右から左へ,側面切削→研磨→穿孔→整形―(『千葉市上ノ台遺跡』)
市内にはこのほか、和泉式期の大森第一遺跡(註6)の第二五号・大森第二遺跡(註7)の第一二号・三五号B竪穴式住居址などに、滑石製模造品の完成品と未完成品がかなりの量発見されており、更にこれらの遺跡から南方約一キロ半の行程にある、同期の築造と推定される七廻塚古墳(生実町峠の台)の副葬品中に優秀な製品が出土している(口絵第一五図)ことなどから、この近くには、また別の玉作集団が居住していたであろうことを推定することができる。