この集落立地は、東京湾方向に開析する宮崎谷の北側に面する標高二七メートルの台地上にあって、その南西隣りには未発掘の宮崎第二遺跡(古墳時代)が続き、谷を距てた南側の台地上には大森第一遺跡(古墳時代)があり、同じく谷を距てた東北方の松ケ丘住宅地には、かつて円墳群があり、後期の組み合わせ式箱型石棺が発見されている(註8)。
2―143図 宮崎第1遺跡の五領式期の遺構配置図 (『京葉』)
2―144図 兼坂遺跡第6号周溝遺構実測図 (『京葉』)
本遺跡の五領式に所属する住居址群は、第二号・第三号・第四号・第五号B・第八号A・第一五号Aの計六戸で、第二号・四号・八号Aは一辺六メートル級、ほかは一辺四~五メートル級の隅丸方形を呈するが、竪穴の構造や出土遺物には大差がないことから、この規模の相違は、竪穴に居住する世帯の多寡にかかわることと思われる。この六戸の住居址群は、同時に存在したものではなく、多少の時間的相違があるにしても、数軒の住居址が集落内の小住居址群を構成し、小範囲の空地を囲んで計画的に建てられ、前面の湿田経営の単位となっていた血縁共同体であろうと考えられる。第三号住居址からは砥石が発見されていることは、鉄製鎌などの農工具が各家に常備されていたことを暗示する。また第三号・四号B・八号A・一五号Aには室内に貯蔵穴があることは、すでに消費生活の自律化と生産物の蓄積を示すものと考える。次に都町兼坂遺跡では(註9)、方形周溝墓と推定される第六号周溝遺構が報告されており、高品町石神一号墳(円墳)では、開墾のための削平時に、琴柱形(ことじがた)滑石製品が発見されたことは、都川の支流葭川の開析した底湿地に水田を経営した農耕民が、周辺台地の縁辺に集落を営なみ、この中から早くも族長層又はそれ以上の階層の人々が、成長していたことを推測させる。
2―145図 高品・東寺山付近の古墳の分布状況と石神1号墳出土の琴柱形・刀子形滑石製品