右のうち、ここでは、大森第二遺跡の住居址群に焦点をあてて考察し、ほかの若干の遺構についても言及することにする。
大森第二遺跡の住居址は、和泉式期三三戸のほかに、鬼高式期四戸、真間式期一一戸、国分式期二一戸、時期不明のもの一〇戸が発掘された。
この集落立地は、前記宮崎谷の南に並ぶ大森支谷と花輪支谷に挾まれた標高二三~二四メートルの台地上にあるもので、すでに縄文式時代早期初頭のころから人が住みつき(註13)、弥生時代にもかなりの集落があったところで、その中期中ごろに比定される小田原式の住居址一一戸も発掘された古村である(第二節第二項二―一〇六図参照)。なお、この遺跡から大森支谷を距てた南側の台地には、比較的大きな大厳寺古墳(円墳)が望まれる。
2―146図 大森第2遺跡の和泉式期の遺構配置図 (『京葉』)
本遺跡の和泉式期に属する住居址群のうち、滑石製模造品の完成品を大量に出土した第一二号址・三五号B住居址については、さきに触れたところであるが、少量の臼玉・管玉・勾玉・有孔円板ならば、半数近くの一五戸から発見され、五〇号からは滑石製子持勾玉も出土したし、三五号Bからは未完成の臼玉三個、五〇号からは用途不明の未完成品一個が検出されていること、本遺跡の北方にある大森第一遺跡の第六・二五号(和泉期)、第三・二六号(鬼高期)、第二七・三〇号(国分期)からも同様な製品が発見されること、〓・坏・高坏・甕などに赤色顔料を塗った供献用のものがかなり多く出土することなどから推測して、これらの住居址に住んでいた人々は、この近傍に所在したであろう滑石製玉作集団とかなり密接な関係を保ちながら、豪族や首長の祭祀にかかわりのある農村集落であったろう。
2―147図 大森第2遺跡出土の滑石製品と未完成品 (『京葉』)
発掘によって判明した範囲において、この集落は六つの単位集団からなっていたように思われ、三二号B・三四号・四〇号B・五三号などのような一辺七メートル級の大型住居址には、遺物の量と質とに多少優れたものがあるように見受けられたのは、単位集団内部の貧富の格差が次第に醸成されていたことを意味するのではなかろうか。