さて、大森第二遺跡の鬼高式期の住居址群は、和泉式期の住居址群に比して、ぐっと縮少され、わずかに一単位集団を残すのみとなる。このことは人口の減少を意味するのではなく、畑作農業や海岸平野の開拓が、谷間の湿田経営の枠をのり越えて進展したために、集落の分散がはげしく展開したことを意味するものであって、すでに「古墳時代の遺跡の分布」で見たように、この時期以降の集落は、今まで居住し得なかった市内の台地奥部まで、あまねくひろがり、陸稲や大麦、粟、ソラマメ、エンドウなど多角的な畑作経営が各地に展開された(註15)。大森第二遺跡の場合では、和泉式期にあった六つの単位集団のうち、恐らく最も有力な一つの集団だけが本拠にとどまり、他の五つの集団はいずれかに新天地を求めて移動したことであろう。
2―148図 大森第2遺跡の鬼高式期の遺構配置図 (『京葉』)
しかし、上ノ台遺跡のような漁撈を主とした集落では、漁場と大型漁網による漁撈作業の制約を受けて、単位集団の分散が困難であったことが、かかる大集落を発展させた要因と思われ、その中において階級の格差が著しく進展せざるを得なかったのである。
市内にある古墳時代の遺跡で、沖積地にあるものは、いまだ確認されていないが、花見川・都川下流の砂州・自然堤防・砂嘴、都川沿岸の市場町から村田川にいたる海岸平野への進出は、畑作経営の進展と併行して急速に行われたと思われ、むしろ後者の人々の努力によってもたらした富の蓄積が、周辺台地に居住する豪族や首長の権力の増大につながる基盤となったことは、東京湾に面する市内の前方後円墳や大きな円墳が、このあたりに集中していることによって知られる。