鬼高式期

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 鬼高式期の良好な資料は幕張町上ノ台遺跡の竪穴式住居址二五〇戸(註14)を筆頭に桜木町京願台遺跡の二戸、仁戸名町へたの台遺跡五戸、都町車坂遺跡第五号・八号、大宮町東五郎遺跡第七号、宮崎第一遺跡第七号・一七号A・二一号・三五号・三八号、大森第一遺跡三号・一四号B・二六号、大森第二遺跡一三号・一七号B・一八号B・二一号Bなどが知られている。このうち、宮崎第一遺跡の第三五号A住居址は一辺九メートル四方の大形のもので、出土品中に、金環二個、ガラス玉一八個があることから、かなり有力な族長級の家であったと思われる。上ノ台遺跡は浜田川本谷と屋敷支谷を東南に見降ろす標高約一五~一八メートルの台地の東南部に密集して所在する漁撈を主とした大集落で、東京湾の海岸へは五百~七百メートルの近距離にあり、漁撈用の土錘が大小合せて千点以上にのぼり、一辺三メートルの小住居址から一辺一〇・五メートルに及ぶ大型のものもあったといわれているが、いまだ詳細な報告に接しない(口絵第一八図)。
 さて、大森第二遺跡の鬼高式期の住居址群は、和泉式期の住居址群に比して、ぐっと縮少され、わずかに一単位集団を残すのみとなる。このことは人口の減少を意味するのではなく、畑作農業や海岸平野の開拓が、谷間の湿田経営の枠をのり越えて進展したために、集落の分散がはげしく展開したことを意味するものであって、すでに「古墳時代の遺跡の分布」で見たように、この時期以降の集落は、今まで居住し得なかった市内の台地奥部まで、あまねくひろがり、陸稲や大麦、粟、ソラマメ、エンドウなど多角的な畑作経営が各地に展開された(註15)。大森第二遺跡の場合では、和泉式期にあった六つの単位集団のうち、恐らく最も有力な一つの集団だけが本拠にとどまり、他の五つの集団はいずれかに新天地を求めて移動したことであろう。

2―148図 大森第2遺跡の鬼高式期の遺構配置図    (『京葉』)

 しかし、上ノ台遺跡のような漁撈を主とした集落では、漁場と大型漁網による漁撈作業の制約を受けて、単位集団の分散が困難であったことが、かかる大集落を発展させた要因と思われ、その中において階級の格差が著しく進展せざるを得なかったのである。
 市内にある古墳時代の遺跡で、沖積地にあるものは、いまだ確認されていないが、花見川・都川下流の砂州・自然堤防・砂嘴、都川沿岸の市場町から村田川にいたる海岸平野への進出は、畑作経営の進展と併行して急速に行われたと思われ、むしろ後者の人々の努力によってもたらした富の蓄積が、周辺台地に居住する豪族や首長の権力の増大につながる基盤となったことは、東京湾に面する市内の前方後円墳や大きな円墳が、このあたりに集中していることによって知られる。