2―151図 大森第2遺跡の国分式期の遺構配置図 (『京葉』)
大森第二遺跡の住居址群二一戸の分布状況は、南側の単位集団は一六戸、北側のそれはわずかに五戸(発掘未了の場所があるから実際は若干上まわるだろう)である。そして、この二つの集団の位置は、真間式期の集団の位置と変わらないことから、引続いて大体同一の家族が定住したものとすると、南側の古村は、真間式期の七戸から一六戸に分かれ、北側の新村は四戸から五戸に変わったことを示す。各住居址の規模、内容を見ると、一辺四メートル前後のものは四〇号C住居址(四・四〇×三・八〇メートル)と六六号住居址(三・六〇×四・二〇メートル)の二戸があるだけで、一辺三メートル級のものが一二戸、一辺二メートル級のものが五戸、不明が二戸であり、一辺三メートル級以下の住居址は、かまどの位置も一定せず、柱穴も一~二カ所あるいは全く認められないものが普通であり、貯蔵穴もほとんど存在しない。また真間式期後半から国分式期の集落内には、しばしば柱穴と思われる多数のpit(穴)が群集する。このような現象は、階層分化に由来する貧困者又は不自由民の竪穴生活と、富裕者又は自由民の平地住居への転換を示唆するもので、その要因は律令体制の強力な展開にあったのではなかろうか。
(武田宗久)
2―152図 宮崎第1遺跡の第1ピット群実測図 (『京葉』)
【脚註】
- 財団法人千葉県都市公社ほか『京葉』昭和四八年
- 宮脇遺跡調査団『宮脇』昭和四八年
- 『京葉』前掲と同じ。
- 財団法人千葉県都市公社『千葉市上ノ台遺跡』昭和四八年
- 寺村光晴「祭祀遺物製作遺跡」『神道考古学講座』第五巻 昭和四七年 同『下総国の玉作遺跡』昭和四九年
- 『京葉』註1と同じ。
- 『京葉』註1と同じ。
- 千葉市教育委員会『千葉市の文化財』五ページ 昭和三六年
- 『京葉』註1と同じ。
- 『京葉』註1と同じ。
- 『京葉』註1と同じ。
- 東五郎遺跡開発調査団『大宮町東五郎遺跡調査略報』昭和四八年
- 『京葉』註1と同じ。
- 千葉県都市公社発掘の九戸、上ノ台遺跡発掘調査団発掘の二四一戸(昭和四九年四月現在の戸数であるが、その後も発掘は継続中である。)
- 鬼高式期以降の鎌は、それ以前のものに比べてずっと大形になり、荒蕪地の開拓に適するように改良された。
2―153図 古墳時代の鎌の変遷