国分式期

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 国分式期の住居址は、畑町宮脇の一号、高品町高品第二遺跡の第五号・一七号、宮崎第一遺跡の一号・五号A・六号・八号B・九号・一〇号・一一号・一二号・一五号B・一六号・一七号B・一七号C・一八号・一九号・二二号・二四号・二五号・二六号・二七号・二八号・三〇号・三一号・三四号・三五号B・三七号・三九号・四一号(計二七)、大森第一遺跡の二号・五号・九号A・九号B・一一号・一三号・一六号A・一七号・一八号B・二〇号・二一号・二二号・二三号A・二三号B・二七号・三〇号A・三四号(計一七)、大森第二遺跡の一〇号B・一七号C・一八号C・一八号E・一八号F・一九号A・二六号A・二六号B・二六号C・二八号・三〇号・三一号B・三二号C・三三号・四〇号C・五五号・五九号・六二号A・六二号B・六五号・六六号(計二一)、多部田町平和公園内の一住居址などが発掘された。

2―151図 大森第2遺跡の国分式期の遺構配置図    (『京葉』)

 大森第二遺跡の住居址群二一戸の分布状況は、南側の単位集団は一六戸、北側のそれはわずかに五戸(発掘未了の場所があるから実際は若干上まわるだろう)である。そして、この二つの集団の位置は、真間式期の集団の位置と変わらないことから、引続いて大体同一の家族が定住したものとすると、南側の古村は、真間式期の七戸から一六戸に分かれ、北側の新村は四戸から五戸に変わったことを示す。各住居址の規模、内容を見ると、一辺四メートル前後のものは四〇号C住居址(四・四〇×三・八〇メートル)と六六号住居址(三・六〇×四・二〇メートル)の二戸があるだけで、一辺三メートル級のものが一二戸、一辺二メートル級のものが五戸、不明が二戸であり、一辺三メートル級以下の住居址は、かまどの位置も一定せず、柱穴も一~二カ所あるいは全く認められないものが普通であり、貯蔵穴もほとんど存在しない。また真間式期後半から国分式期の集落内には、しばしば柱穴と思われる多数のpit(穴)が群集する。このような現象は、階層分化に由来する貧困者又は不自由民の竪穴生活と、富裕者又は自由民の平地住居への転換を示唆するもので、その要因は律令体制の強力な展開にあったのではなかろうか。

(武田宗久)



2―152図 宮崎第1遺跡の第1ピット群実測図    (『京葉』)

 【脚註】
  1. 財団法人千葉県都市公社ほか『京葉』昭和四八年
  2. 宮脇遺跡調査団『宮脇』昭和四八年
  3. 『京葉』前掲と同じ。
  4. 財団法人千葉県都市公社『千葉市上ノ台遺跡』昭和四八年
  5. 寺村光晴「祭祀遺物製作遺跡」『神道考古学講座』第五巻 昭和四七年 同『下総国の玉作遺跡』昭和四九年
  6. 『京葉』註1と同じ。
  7. 『京葉』註1と同じ。
  8. 千葉市教育委員会『千葉市の文化財』五ページ 昭和三六年
  9. 『京葉』註1と同じ。
  10. 『京葉』註1と同じ。
  11. 『京葉』註1と同じ。
  12. 東五郎遺跡開発調査団『大宮町東五郎遺跡調査略報』昭和四八年
  13. 『京葉』註1と同じ。
  14. 千葉県都市公社発掘の九戸、上ノ台遺跡発掘調査団発掘の二四一戸(昭和四九年四月現在の戸数であるが、その後も発掘は継続中である。)
  15. 鬼高式期以降の鎌は、それ以前のものに比べてずっと大形になり、荒蕪地の開拓に適するように改良された。


2―153図 古墳時代の鎌の変遷