第二項 千葉国造の成立

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 四世紀前半から五世紀後半に及ぶ約一五〇年間は、大和朝廷の充実に伴って、領土の拡大と氏族の統一とが、全国的に展開する。それは最初の実在の天皇と思われる崇神天皇から雄略天皇に至る時代であって、四七八年に、倭王武(雄略天皇)が南朝(中国)の宋へ派遣した上表文の一節に「昔より祖禰(そでい)(父祖)躬(みずか)ら甲冑を〓(つらぬ)き、山川を跋渉して、寧処(ねいしよ)に遑(いとま)あらず、東は毛人(蝦夷)を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」とあることによっても知られる。また記紀に伝承される崇神天皇の四道将軍の派遣(一〇年)、皇子豊城入彦命の東向(四八年)、景行天皇朝の武内宿弥の東北巡察(二五年)、日本武尊の東征(四〇年)、景行天皇の東巡(五三年)、彦狭王(五五年)・御諸別王(みもろわけおう)(五六年)の東国巡撫、並びに成務・応神両朝の大小国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)の任命などは、東国への征服事業の進展を示す物語であろう。ことに、応神、仁徳、履中、反正、允恭、雄略の各天皇のころ、南朝鮮との国際関係を好転させる目的で、前後一〇回にわたり宋に朝貢していることは、五世紀前半から後半にかけて、積極的に高度な外来文化を摂取した大和朝廷の政治力と武力の充実が、全国的な征服事業となって展開され、北は北越、東北南部、関東から南は九州全域に及ぶ広範な地域を支配下に吸収し、そこに割拠していた多くの地方政権を、あるいは滅ぼし、あるいは服属させ、ここに新たな政治組織と氏族制度の改変をもたらした。
 その内容は、今まで各氏がそれぞれ同一の土地に住み、永い間共同の生活を続けて来たが故に、共同の氏神を祭り、共同の祖先から出たものと信じてきた観念を拡大させて、新たに皇室とすべての氏の間には神別又は皇別の血縁的結びつきがあるという意識のもとに、神秘的な権威をもつ大王(おおぎみ)(後の天皇)が崇拝され、太陽を中心とする皇室の神々から各各の氏神もまた分岐してきたものとして、宗教的に大和の中心的威力を承認するようになった。それは恐らく四~五世紀の間に行われた朝鮮半島進出前後に一応普遍化していた模様で、そのころ、地方首長の多くは、新たに国造、県主、稲置(いなぎ)などに任命され、それぞれの身分や家柄に応じて種々の姓(かばね)を授けられ、それによって旧来の権威と土地人民を保有しながら、地方国家統一の細胞中枢となった。『日本書紀』成務天皇四年春二月の条に「今より以後、国郡(くに)に長(かみ)を立て県(あがた)邑に首(おびと)を置かん。即ち当国(そのくに)の幹了者(おおしきひと)を取りて其の国郡(くに)の首長(かみ)に任(ま)け、是を中区(うちつくに)の蕃屏(まもり)と為さんと。」とあり、五年秋九月の条に、「諸国に命(みことのり)して国郡(くに)に造長(みやつこ)を立て、県(あがた)邑に稲置(いなぎ)を置き、並楯矛(みなたてほこ)を賜いて表(しるし)と為す。即ち山河を隔(さか)ひて国(くに)・県(あがた)を分ち、阡陌(たださのみちよこさのみち)に随ひて邑里(むらさと)を定む。」とあるから、彼らは朝廷への忠誠の代償として楯や矛を賜ったこと、国・県(朝廷の直轄地)の境界は原則として山河など自然の地形に従って区劃したようであるが、四~五世紀の古墳から出土する青銅製鏡や碧玉製鍬形石・車輪石・石釧なども、朝廷から下賜された宝器であったかもしれない。
 今房総における国造の状態を見ると、安房二、上総六、下総三の割合で配置され、臣(おみ)の姓(かばね)を有するものは、武社(むさ)、須恵(すえ)、馬来田(まくた)の三国造、直(あたい)の姓は阿波(あわ)、伊自牟(伊甚)(いじむ)、菊間(菊麻)(きくま)、上海上(かみつうなかみ)、千葉(ちば)、印波(いんば)、下海上(しもつうなかみ)の七国造、姓の不明なものに長狭(ながさ)国造がある。即ち姓に直(あたい)が多いが、この現象は単に房総に限ったことではなくて、全国国造のうち、姓の明瞭なもの九六のうち五七まで直であるところから見ると、通例この姓は国造に賜るのを原則とした模様である。したがって阿波、伊自牟、菊間、上海上、千葉、印波、下海上の各国造の勢力はやや同格であることがわかるが、武社、須恵、馬来田の三国造は臣(おみ)を賜わる程の有力な家柄で、その祖先は孝元天皇以前の古い天孫又は皇別から出たもののように伝承され、房総における一一個の国造のうちで、早くから大和朝廷に対して独自な勢力を保持していた首長であったことを示唆する。次に国造に任命された時代を見ると長狭国造(不詳)を除く上総、安房国内のすべてのものは四世紀後半ないし末葉と考えられる成務天皇朝にあるのに対して、下総国内の印波、下海上両国造は五世紀前半の応神天皇朝になってから任命されており、大和朝廷の威力が房総半島中南部から次第に北方に進出していったであろうことを暗示する。
2―25表 房総の国造一覧
摘要
名称時代氏名又は部名出自系統記録
安房阿波国造成務天皇朝大伴大滝天穂日命8世孫弥都侶岐命の孫神別旧事本紀
長狭〃〃未詳神八井耳命の後裔皇別古事記
上総武社〃〃成務天皇朝牟邪和邇臣祖彦意祁都命の孫旧事本紀
伊自牟〃〃
(伊甚)
春日部
伊己侶止
安房国造祖伊許保止命の孫神別
須恵〃〃大布日意弥(臣)茨城国造祖建許侶命の児
馬来田〃〃深河意弥(臣)茨城国造祖建許侶命の児
菊間〃〃大鹿国旡邪志国造祖兄多毛比命の児
上海上〃〃忍立化多比
檜前舎人
天穂日命8世の孫建比良馬の命
下総千葉〃〃未詳大私部善人彦坐命の後裔皇別日本後紀
印波〃〃応神天皇朝伊都許利
丈部
神八井耳命8世の孫皇別旧事本紀
下海上〃〃久都伎
他田日奉
上海上国造の祖孫神別

 しからば千葉国造はいつ置かれたであろうか。既述のように千葉国造は記紀にも『国造本紀』にも記載されず、忽然として『日本後紀』延暦二十四年(八〇五)癸卯(みずのとう)の条(桓武天皇朝)に「千葉国造大私部直善人(おおきさいべのあたいよしひと)に授く外従五位下(げじゆごいげ)を」とあり、翌大同元年(八〇六)癸巳(みずのとみ)の条(平城天皇朝)に「外従五位下千葉国造大私部直善人を為す大掾(だいじよう)と。参議従三位紀朝臣(あそん)勝長を為す兼下総守と。」とある。右によれば、大私部直善人が外従五位下を賜ったのは平安時代初期のことで、大化改新を距たること、既に一六一年にもなるから、もちろん国造の制度は廃止されている。そして全国には中央から国司が派遣され、土着の豪族の多くは郡司以下に任ぜられ、堂々たる律令国家となっていて、既に中央集権的国家体制は確立していた。
 そこで千葉国造は、『国造本紀』の成立過程には存在せず、律令制施行以後に任命されたいわゆる律令国造であろうとする見解と、改新前の千葉国造が、改新以後もそのまま国造の称号を公許され(註1)、その家柄にふさわしい直の姓を継承したとする見方に分かれる。
 前者の見解によれば、改新前の房総は総の国と呼ばれ、その北半部には、印旛沼周辺に本拠を置く印波国造と、現利根川下流一帯に君臨する下海上国造とがあったが、改新後の地方行政区画によって下総国となり、印波国造の領土は、後に『延喜式』や『和名抄』などに記録される印旛、埴生、千葉、葛飾、相馬、〓嶋、結城、岡田の八郡に分けられ、下海上国造の領土は、海上、匝瑳、香取の三郡となった。そして印波国造の後裔は印旛郡の郡司に、下海上国造の後裔は海上郡の郡司に任ぜられ、新設の千葉郡からは千葉国造が選任されたとするのである。『続日本紀』光仁天皇天応元年(七八一)の条に「下総国印旛郡大領外正六位上丈部(はせつかいべ)直牛養」・『万葉集』巻二〇に「印波郡丈部直大麻呂」とあり、『三代実録』光孝天皇仁和元年(八八五)三月十九日の条に、「下総国海上郡大領外正六位上(げしようろくいのじよう)海上国造他田日奉直春岳」・『万葉集』巻二〇に「海上郡海上国造他田日奉直得大理」の名が見えるのは、このような家柄の人々であるとするのである。

2―154図 房総における国造の分布図

 しかしながら、大化前代の国造の称号は、前述の「海上国造他田日奉直春岳」、「海上国造他田日奉直得大理」や『続日本紀』の「出雲国造外従七位下出雲臣広嶋」(神亀元年正月)・「伊豆国造日下部直益人」(天平十四年四月)などのように、国造制が廃止された後も、神事や祭祀を主宰する旧国造の家柄に対して、姓と共に賜わったと見るのが妥当であるから、大化前代に千葉国造が存在していたことが可能となり、印波、下海上両国造の任命が、さきにあげたように応神朝にあることなどから、千葉国造のそれも右と大体同時代にあるものとすることができる。すなわちこのころになって、房総北半部の有力氏族が続々大和朝廷の勢力下に服属し、それらのうちの最有力な首長が国造に任ぜられたのである。
 次に注意すべきは大私部(おおきさいべ)という称呼である。『新撰姓氏録』右京皇別下(巻五)には「大私部、開化天皇の皇子、彦坐命(ひこいますのみこと)の後なり。」とあり、飯田武郷は、
 「私字をキサイとよめる由は、『漢書』の張放伝に大官私官とある下の服虔が註に、私官は皇后の官と見え、また『後漢書』百官志に、中宮私府令一人とも見えたり。私字を后の称に用たる、漢国の例に拠りたる書さまとぞ見えたる。かくて私部をキサイベと唱うは、中昔よりの音便にして、雅(ただ)しくはキサキベと唱うべきなり。(中略)敏達天皇よりも前の御世に、后の奉為(みため)に定置れたりし部(べ)に大私部の氏(うじ)を賜いたりしなるべく、敏達天皇の御世に置かれたる私部はそれとは別なるべし(註3)。」とあるように、六世紀以前に太后の為に設けられた伴部(ともべ)として伝えられ、その性格は私部(きさいべ)、御名代部(みなしろべ)、御子代部(みこしろべ)、日祀部(ひまつりべ)などと同じく皇室直轄の部民(べみん)であった。
2―26表 房総における皇室直轄の部民
世紀天皇部の名称安房上総下総
5応神雀部
反正軽〃
允恭刑〃
藤原〃
安康穴穂〃
長谷〃
雄略日下〃
清寧白髪〃
顕宗三枝〃
仁賢石上〃
6武烈小長谷〃
安閑春日〃
宣化檜前〃
欽明他田〃
敏達私〃
崇峻椋椅〃
推古壬生〃

大私部の設置年代は不明である。
 
 大私部分封の国は千葉、越前、美濃、丹後、出雲、隠岐などで広範な地域に分布し、四~五世紀以降大和朝廷の国家統一が進捗するにつれて、次第に設置をみたようで、その成立の事情は地方豪族の征服ないし奉献による場合が多かったように思われる。例えば雄略天皇紀十四年春四月の条をみると、根使主(ねのおみ)の叛逆鎮定後、「天皇有司(すめらみことつかさ)に命(おお)せて子孫(うみのこ)を二つに分ちて、一分(なかば)をば大草香部民(おおくさかべのかき)として皇后(きさき)に封(よ)さしたまい、一分(なかば)をば茅淳県主(ちぬのあがたぬし)に賜ひて負嚢者(ふくろかつぎびと)と為す。」とあり、根使主の子孫を二分して、半ばを皇后の封民として収公しており、安閑天皇紀元年夏四月の条には、「謹みて専(もは)ら皇后の為に伊甚屯倉(いじみのみやけ)を献りて、闌入之罪(みだりがわしくまいれるつみ)を贖(あがな)わむと請う。因りて伊甚屯倉を定む。今分ちて郡と為し上総国に属く」とあり、伊甚(いじみの)国造稚子直(わくごのあたい)が春日皇后の内寝(おおとの)に闌入(らんにゅう)した罪を贖うために己れの土地を奉献して屯倉となしたとあるから、その地の住民もこの屯倉に属する部民となったことであろう。
 伊自牟(伊甚)国造の任命は成務天皇朝にあったが、それが屯倉となったのは六世紀前半ころ(五三四年)になってからであるが、記紀によればこのころ関東の屯倉は続々成立した。そして現在知られている関東地方のすべての屯倉は安閑天皇朝にあることは、大和朝廷の威力がこのころからいよいよ濃厚に関東地方の国造など諸豪族の上に加わって、従来のような間接的な支配体制から脱却し、強力な国家統治の方針の下にいろいろな名目によって、彼らの領土を収公していったことを示している。かかる形勢は屯倉と実質においてほとんど差異を認めない県(あがた)、御名代、御子代、大私部、私部の設置年代を推定するうえに重要な手がかりを与えるように思うのである。
2―27表 関東地方の屯倉
屯倉名成立時期
〔上総国〕
天羽屯倉
伊甚屯倉安閑朝
〔下総国〕
印旛屯倉
海上屯倉
〔常陸国〕
鹿島屯倉
〔武蔵国〕
横渟屯倉安閑朝
橘花屯倉
多氷屯倉
倉樔屯倉
〔相模国〕
麁玉屯倉
〔上野国〕
緑野屯倉

 一体、臣(おみ)、連(むらじ)、君(公)(きみ)、凡直(大直)(おおし)などの姓を冠している国造は、概して大和朝廷に対して独立性をもっていた古来の雄族で、房総においては須恵、馬来田、武社三国造がこれに属し、かなり独特な文化を後世まで持続しており、容易に朝廷の実質上の支配に服しなかった国々であるように察せられるが、直(あたい)や別(わけ)、造(みやつこ)などの姓を有する国造は前者よりもやや劣勢であったために、大和朝廷の支配が比較的良く浸透した。今直姓の国造の内容に就いて検討すると、
 大倭国造――大和直
 山城国造――山代直
 那須国造――那須直
 新治国造――新治直
などのように、国名を氏とする国造は、名実ともに一国内の諸氏族の首長として相当の威力を示していたであろうが、
 山背国造――久我直
 多珂国造――石城直
などのように国内の地名を氏としたものや、
 阿波国造――大伴直
 相武国造――漆部直
などのように氏族の名称又は職業名を冠したものは、前者に比較して劣勢であったことがわかる。そしてこのあとの種類に属する国造は、東国、ことに房総には多く、
 下総国には、
  千葉国造――大私部直
  印波国造――丈部(はせつかいべ)直
  下海上国造――他田日奉(おさだひまつり)直
 上総国には、
  上海上国造――檜前舎人(ひのくまのとねり)直
  伊甚国造――春日部直
 安房国には、
  阿波国造――大伴直
など房総一一国造中、六国造をかぞえる。
 この中で阿波国造以外は国造としてその地方を統轄するとともに朝廷直轄の部民(伴部(ともべ))を率いる首長(伴造(とものみやつこ))として、ある種の職能を命ぜられていたのである。伊甚国造が春日皇后に国土を奉献して春日部の首長となったように、ほかの国造たちもいつの日にか右と同様な運命をたどっていたことが想像される。すなわち大私部はすでに説明したように、すくなくとも開化天皇以後敏達天皇以前に何人かの皇后のために収公された部民であり、他田日奉部(おさだひまつりべ)は敏達天皇(他田宮(おさだのみや))の御名代部(六世紀後半)、檜前舎人部(ひのくまのとねりべ)は宣化天皇(檜前之盧入野宮(いおりぬのみや))の御名代部(六世紀後半)、春日部は安閑天皇の皇后春日山田氏の封民(六世紀前半)であるから、印波、上海上の二国造は六世紀後半に、伊甚国造は同じく六世紀前半に朝廷の完全な支配下に入ったことが知られる。
 そこで、千葉国造も前記諸国造たちと同様に弱小国造の部類に属すること、その冠する部の種類からいっても全く同様な性質を具有するものであることなどから、これを敏達天皇以前、あまりさかのぼらない時代に国土の奉献ないし収公があったものと考えられる。
 以上のように千葉国造はたしかに弱小ではあったが、すくなくとも千葉郡内の住民に対しては絶大な権威をもってのぞむ程の家柄であったに違いない。そこで彼の支配下にたつと思われる氏族集団には、果たしてどのようなものがあったであろうか。今これらをうかがうにたる資料は、はなはだ少ないのであるが、試みに千葉市内に遺存する上代の地名と平安時代の記録に表れた氏族又は部の名称、ないしは社寺などを表示すれば二―二八表のようになるから、上代における千葉国内の住民は、池田氏(?)、軍君(こにしきのきみ)(註4)の後裔(?)、稲置の一族、三枝部、山部(?)、物部、蘇我部、太田部、大私部、占部(註5)、矢作部、園部(?)、長谷部などが推定される。これらの住民は恐らく千葉国造の盛時においては、こうした他の氏又は或る部をのちに名乗る人々の祖先を従属させることによって、そこに擬制の血縁的関係を結び付け、己の一家を「はらから」といい、親族を「うから」、従属者を「ともがら」または「やから」として広義の氏族社会を構成していたことであろう。
二―二八表 千葉市内にある上代の地名と記録に表れた氏族・部の名称及び社寺
名称種類記録その他摘要住民
千葉国名日本後紀千葉国造千葉氏
千葉郡名万葉集、延喜式、和名類聚抄千葉郡千葉氏
知波原野万葉集知波乃奴知波氏
千葉郷名延喜式
和名類聚抄
千葉郷
(和名抄には知波と訓じている)
千葉氏
(知波氏)
千葉寺名布目瓦
経筒
(元徳三年在銘金剛山東禅寺鐘「千葉寺之北八幡宮之南」云々を最古とす。)――
池田郷名延喜式
和名類聚抄
池田郷池田氏?
いかた郷名?更科日記「いかたという所にとまりぬ」池田氏?
三枝郷名延喜式
和名類聚抄
三枝郷三枝部
糟〓郷名糟〓郷軍君(こにしきのきみ)の後裔?
●山家郷名山家郷山部?
●物部郷名物部郷物部
●山梨郷名山梨郷
蘇我社名延喜式蘇賀比〓神社蘇我部
寒川社名寒川神社――
×香取社名――香取神社――
×稲城台地名――稲置の所在地?稲置
大私部部名日本後紀千葉国造大私部直善人大私部
太田部部名万葉集太田部足人太田部
▲占部部名万葉集占部虫麿占部
矢作地名――矢作部の所在地?矢作部
×園生地名――園部の所在地?園部?
長谷部(ハソベ)地名――長谷部の所在地長谷部
●は千葉市外のもの。▲は千葉市内かどうか明瞭でないもの。
×は上代の記録その他には無いが改新前の状態を窺うにたる地名である。

 次に千葉国造の支配下にあった領域が、どのあたりであるかについては、もちろん甚だ漠然としてつかみ得ないけれども、第三節第一項で見た古墳時代の遺跡の分布状況や、後に述べる千葉寺が奈良時代の建立と見做されることからして、その本拠は都川下流の沖積平野を含む周辺台地にあって、北は塩田川、花見川沿岸、東は鹿島川沿岸を限り、南は大厳寺町あたりまでとし、生実町以南の地は、むしろ菊間国造の支配下に属していたのではなかろうか。
 最後に千葉国造が大私部の伴造となる以前において、果たして何氏を称していたかは明瞭でないけれども、この氏の根拠が後の千葉郷内に相当する地域にあって、その地域が古くから「チバ」という地名で呼ばれていたと推定されることから、氏にも冠して「チバ」氏を唱えていたとする可能性は極めて多く、
 武社(むさ)国造――牟邪臣
 須恵(すえ)国造――末使主(すえのおみ)
 山城国造――山代直
 葛城国造――葛城直
 尾張国造――尾張連
 伊豆国造――伊豆直
などのように、比較的有力な国造の多くが国名を氏としているのは(註6)、彼らの支配下にある土地が永く大和朝廷の直轄地にならなかったために、本来の氏名を記録の上にとどめているものと解せられるが、反対に、
 千葉国造――大私部直
 上海上国造――檜前舎人直
 下海上国造――他田日奉直
 印波国造――丈部直
 駿河国造――金刺舎人
 粟国造――忌部首
のような弱小な国造は、早く直轄領土の中に編入されてしまった結果、氏よりもむしろ伴造としての表現をもって表されているのであって、彼らの氏の名称が昔からないわけではないのである(註7)。

(武田宗久)


 【脚註】
  1. 改新以後も国造の称号を公許していたことは、地方の郡司などに発せられた太政官符や、『続日本紀』大宝二年四月条に「詔して諸国国造之氏を定め、其の名を国造記に具す」とあることによって知られ、これを律令国造と称して区別する。なお、延喜十四年には全国に国造田四一一町五段歩が給せられ、下総国の国造田は一八町歩であった。『政事要略』五三巻
  2. 『国造本紀』に応神天皇朝のこととして「以高皇産霊尊九世孫、千波足尼、為粟国造。」とあるが、右は四国の粟国造に関する記事とも考えられるから、本稿においてはこれに触れないことにする。
  3. 飯田武郷『日本書紀通釈』五一巻 敏達天皇の条
  4. 『日本書紀』雄略天皇五年の条に百済の加須利君(かすりのきみ)の弟、軍君(こにしきのきみ)が我国に来朝したことを伝えている。
  5. 鹿持雅澄は『万葉集古義』(巻二〇之中)において、占部虫麿(うらべのむしまろ)を千葉郡の人としており、妥当な見解と思う。
  6. 全国の国造の中で国名を氏としたものの数は六八、国内の小地名を氏としたものは五、部名又は職業名を氏としたものは二二に達する。
  7. 現在市原郡姉崎町附近に海上(うなかみ)を氏とする家があるのは、上海上国造の氏の称呼を残しているものとすべきであろう。