〔附記〕千葉という名称の由来

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 「千葉」という名称については従来種々説かれているが、これを整理すると大要次の三説となる。
 (一) 羽衣伝説に系統を引くもの
 今県庁敷地内に幾代目かの「羽衣松」と称する旧蹟がある。右に関連する代表的な資料は、『千葉支流系図』の一つである「君島系図」所載の記事であろう。すなわち同書には、
  昔、有下総国葛飾府千葉郡一人国王。園種千葉之花樹。其花盛時、必、 天女各降来而遊覧于一レ園。使天衣懸置于松枝、其容貌輝於辺。其国主欲之嫁一レ之。故使天女之羽衣竊之。然天女各見花了、欲帰。一女無天衣、不帰。則相止為夫妻。多子孫。是故改其所名千葉、其松名天羽衣松
とあって、「千葉」の地名は国主の園中に植えた「千葉(せんよう)の花樹」に由来するものとしているが、『妙見実録千集記』は「花見系図」を引いてこの伝説を更に具体化して次のように述べている。
  千葉介常将、此の代に至って、天人降りて夫婦に成り給へり。子細は千葉の湯之花の城下に、池田の池とて清浄の池あり。此の池に蓮の花千葉に咲けり。貴賤上下群集して見物す。或夜人静まりて夜半過に、天人天下り傍の松の枝に羽衣を懸置き池の辺へ立寄りて、千葉の蓮花を詠覧し給ふ。夫より湯の花の、城の影向成りて、大将常将と嫁娶し給ひ、無程懐胎有りて、翌年の夏の頃、無恙男子産生し給う。是を常長と号す。此事都鄙遠近依其隠、達叡聞、依勅宣常将及参内、任御尋右之趣委細奏聞仕る。前代未聞の事也と御感不斜、為御褒美従四位。則ち千葉の蓮花を御形取り、「自今以後千葉と名乗り可申、」旨勅諚有りて、此時始めて千葉と号し、則ち御暇被下置、帰国仕候也。其の以後、天人は羽衣を着して天上し給ふ也。
 すなわち本書では明らかに「千葉家」の家系が天女との通婚に関係あるものとなっており、「千葉」の称は「池田の池」に咲いた「千葉の蓮花」を形取ったものとして説かれている(註1)。
(二) 霊石天降伝説に系統を引くもの
  『千葉大系図』の忠頼の傍註に、
  延長八年庚寅六月十八日、誕生於下総国千葉郡千葉郷也。(中略)。此時有祥瑞。備月星之小石墜於空中。此石入醍醐天皇之叡覧、勅号千葉石也。嫡流者月星為家紋末流者諸星為家紋、其詳見花見系図。為当家之秘。千葉氏之称始于此。
とあり、『千葉伝考記』には右を敷衍して、
  延長年中、忠頼下総国にて誕生の時日月光を並べ照臨し、其上祥瑞多かりき、産屋より本殿に移し臣僕等集りて之を賀す。此の日空中より落ちたるか、庭上を観るに、月星の象形を備へし小石あり。「天の賜なり」とし尊崇して秘蔵す。其の後此の石偶々醍醐天皇の叡覧に入り、勅に仍って、千葉石の号を賜はる。故に千葉の称茲に始る。其嫡流は月星を象りて家紋とし、末流は諸星を以て家紋とす。
と述べ、千葉家の称呼と月星の紋章が空中から降下した所謂「千葉石」に起因することを説いている。更に本書の筆者は「千葉石」の所在について、
  千葉家系に曰く。千葉勝胤、帰依禅宗天文元年壬辰春二月、為開山花翁祖芳大和尚、建立禅寺於印旛郡浜宿邑、号常蔵山勝胤禅寺、奉家蔵之千葉石此矣云々
と記している。

2―155図 千葉石

(三) 草木の葉の繁茂する様を形容したとする説
 契冲は『古事記』に応神天皇が山城国葛野郡において詠まれた歌「知婆(ちば)の加豆奴(かづぬ)を見れば、百千(ももち)たる、家庭(やにわ)も見ゆ、国の秀(ほ)も見ゆ」を考証して(『万葉代匠記』巻二〇)、
  知婆者千葉也、加豆奴者葛野也、言山城葛野郡也、葛〓蔓延、其葉莫莫、故以千葉之。下総有千葉郡、与葛飾郡鄰、亦其義也。
とあるのはこの説を代表するもので、ちばという言葉を千葉万葉(せんようまんよう)の意味に解釈して、くづ葛(かつら)の葉が繁茂する状態を形容した言葉としており、邨岡良弼、吉田東伍らもこの説を支持する。右のほか『千葉盛衰記』『千葉実録』などには「池田郷を改名し給ふことは、葛原親王の苗裔平姓なる吾が一族の繁栄を、千草の生い茂るに准じて、千葉の郷と号し給う。千葉は一郷一庄にて御嫡子これより初めて千葉介と称すとなり。」とあって、草木の繁茂する状から転じて千葉家一族門葉の繁栄を意味する土地の称呼としたとある。
 以上三説のうち契冲の葛に由来を求めようとする主張以外のものは、すべて千葉家の出自が高貴なことや一族の繁栄を念ずる意途から考案されたものばかりであって、「千葉(せんよう)の花樹」といい、「千葉(せんよう)の蓮花」といい、「千葉石(ちばいし)」といい、「千草(ちぐさ)の生い茂るに准ずる」といい、何ら千葉という言葉の本質に触れることなく、ただ千葉家の歴史を説明するための仮託としての用例にすぎない。ただし、羽衣伝説そのものは或いは早くから市内に伝承されていたかもしれないけれども、この物語が千葉家の出自を説明する材料に供され、「千葉の花樹」とか「千葉の蓮花」とかいう表現をもって、「千葉」という地名の由来を述べようとする試みが行われるようになったのは、ずっと後世になってからのことである。また空中から落下したという「千葉石」は、月星の紋章を説明するための材料としてのみ一応は役だつのであるが、それすら「其天衣有月星之紋、故相伝為家紋」(『君島系図』)という異説によってもわかるとおりに、頗る疑わしいものとなる。それゆえにこの霊石も「千葉の称茲に始る」というべき程の秘宝とはなり得ないものであることはいうまでもない(註2)。
 次に草木の葉の繁茂する様に由来を求めようとする説は契冲において最も優れ、『万葉集』の「知婆の加豆奴(ちばのかづぬ)」(応神天皇の歌)、『知波の野(ちばのぬ)』(太田部足人の歌)等をそれぞれ「千葉の葛野」「千葉の野」にあてるというふうに、千葉家成立以前にさかのぼって本市の地名の由来を探求している点に注目すべきものがある。しかし右は「千葉」という漢字にとらわれすぎた解釈であって、既に『万葉集』には知波、知婆、千葉郡などの語を見出し、『日本後紀』には千葉、『延喜式』には千葉、『倭名類聚抄』には、千葉と書いて知波と訓じていて、必ずしも「千葉」という漢字にあてて草木の繁茂する意味に解釈する必要はない。そこで「チバ」という言葉の構成から検討すると、上古には濁音を用いないのが原則であるから、「チバ」は「チハ」からの転音で、この変化はかなり早い時代に成立したらしいこと、「チハ」は「チ」と「ハ」の複合語であろうことを推知することができよう。
 恐らく「チ」は血(ち)、霊(ち)、乳(ちち)、父(ちち)などと音通で血縁を同じくするものの意、「ハ」は歯(は)、葉(は)、端(は)、母(はは)などと通じ呼吸する、繁る、子孫、生れる、末端などを意味し、「チ」と「ハ」の結合からなる「チハヤフル」という「神」の枕詞には神意の烈しさ、畏ろしさ、速さなどを含めた意味をもっていることなどから、「チハ」とは「畏敬する神を同祖とするものの血縁集団」又は「その居住する所」という程の意味があるのではないかと思われるのである。
 これを要するに千葉という称呼の成立過程は、まず原史時代において自然に発生した「チハ」という同族集団の汎称から、やがて彼らの居住する所を表す固有名詞として「チハ」ないし、「チバ」が使用され、同時に彼らの氏族は「チバ」氏と呼ばれた。その後「チバ」氏が次第に勢力を蓄えてチバ一円を従えるようになると、「チバノクニ」が一般に知られるようになり、やがて大和朝廷の支配下に服属して、その首長は、「チバ」国造に任命され、彼の率いる人民はその領土と共に、一応収公された形式の下に大私部となって貢納のための労働に従事した。そこで「チバ」氏の首長は一方においては「チバ」国造であると同時に他方では大私部を統率する「トモノミヤツコ」(伴造)でもあったから、その家柄を示すにアタイ(直)の「カバネ」(姓)を公許され、ついには大私部を己の氏とするかのごとくになって、永く朝廷の直轄領土の中に奉仕する地方豪族の一つとなったために、たまたま『日本後紀』には「千葉国造大私部直善人」なる人物が見えるのである。
 さて、その後王朝後半期の激しい政治的動乱期に際会して関東八平氏の一族が侵入し、後述するような方法で「チバ」氏の領土を蚕食し、ついには全く旧領を奪取してそこに新しい支配関係が成立した。その領土が「千葉の荘」であり、その新たなる支配者が所謂葛原親王の苗裔「千葉氏」であるのである。すなわちこの第二の「千葉氏」は第一の「千葉氏」の名称をそのまま踏襲することによって、領内の住民と新しい主従関係を結んだが、その出自は単に葛原親王の後裔とする以外に、古くから千葉の土地と深い関係にある高貴にして権威ある家柄であるとの印象を抱かせるために、いろいろな説話や伝承の中に附会して説明する必要があったのである。

(武田宗久)


 【脚註】
  1. 千葉を「千葉の蓮花」に由来すると説く伝承には次のようなものもある。「住僧が曰く、此地は千葉の蓮花生出、其中に観音の小像あり、行基これを拝し、自ら丈六の仏を作りその眉間に彼小像を納む。聖武帝これを聞しめされ、勅して堂を建立し玉う。其地は今の寺より東へ七八町程去て志面地我原と云なり、因て里の名を千葉と云。其後此所に遷るなり。」(『甲寅紀行』)右は千葉寺縁起に「行基菩薩諸国遊化の際、当地池田の郷を過る時、池中に千葉青蓮一茎二花、大きさ車輪の如くにして、金色の光明を放つ云々」から来た俗説で、千葉寺の称呼を説明するために案出したものである。
  2. 勝胤寺の千葉石は石灰質の水成岩で有孔虫の化石を多量に含み、中央に白く月の形を陽刻してある(昭和二七年一月調査)。