したがって旧来の国造、伴造等地方豪族なども当然土地人民の用益権を剥脱されたわけで、新に国、評(大宝律令施行=七〇二年以後郡と称す)、里の行政区画が設定され、国には国司、評(こおり)には評造(こおりのみやつこ)、里には里長がたてられ、国司(守、介、掾、目)には主として中央の貴族が任命されたが、評造(大領、小領、主政、主帳)以下の官職には土着の有力者を採用するのが普通であった(註1)。
既述のように東国は文化が低く抵抗も少なかったため、大和朝廷に対して比較的早くしかも柔順に帰属する豪族が多かったものと見えて、安閑朝を境として屯倉の設置が増加し、また皇族の壬生部、御名代部、御子代部の伴造となる者を生じたが、大化改新の政策もまず東国に着手された。すなわち大化元年八月五日早くも東方八道に国司が任ぜられ、翌二年三月十九日には東国朝集使及び国造等をして、国司の治状を奏させ、過(あやまち)あるものは罰し、法にしたがえる者を賞している。次に評造には、「並国造(みなくにのみやつこ)の性識清廉(ひととなりたましいいさぎよ)くして、時務(ときのまつりごと)に堪へたる者を取りて大領(おほみやつこ)・少領(すけのみやつこ)と為せ、強幹(いさお)しく聡敏(さと)くて、書〓(てかきかずしる)に工(たくみ)なる者を主政(まつりごとひと)、主帳(ふみひと)と為せ。」とあり、事実、下海上国造他田日奉部直神護(おさだひまつりべのあたいしんご)が天平二十年(七四八)に己の旧領の大領たらんとした申状などを見ると(註2)、郡司は改新前の世襲地方官である国造の中から選任されている。このことは恐らく彼らの威力を利用してその摩擦をできる限り少なくし、地方民心を把握しようとする慎重な意図にでたものと解され、そこにいささか旧体制との妥協が見られるけれども、新制では中間に国司を新設しているから、これによって巧みに旧国造に対する皇室の支配権の強化を策していることがわかる。
房総はこのとき上総、下総の二国に分けられ、下総国は葛餝、千葉、印旛、匝瑳、海上、香取、埴生、相馬、〓嶋、結城、豊田の評に分れ、上総国と共に大国に属し、葛餝評内に国庁(市川市国府台付近)が置かれた。この上総、下総の境は、東京湾では村田川、九十九里沿岸では栗山川であったと思われる。すなわち村田川の両岸を基盤として栄えていた旧菊間国造の領域は、川を挾んで南北に分断されたから、菊間という地名すら、評名(後の郡名)としては残されなかったのである。
今史実に残る下総国司は大化改新を隔ること五七年後の大宝三年(七〇三)七月に任命された上毛野朝臣男足(守)を初見とし、『六国史(りっこくし)』には守(かみ)四六人、介(すけ)二二人、大掾(だいじょう)二人、少目(しょうさかん)一人、郡司は大領(だいりょう)に印旛郡大領丈部直(はせつかいべのあたい)牛養と下海上郡大領海上国造他田日奉直春岳、主張(しゅちょう)に〓嶋郡主帳孔王部(あなほべの)山麻呂を記録するのみである(註3)。
さて郡(こおり)と里(さと)の規定は、「凡そ郡は四〇里を以て大郡と為し、三〇里以下四里以上を中郡と為し、三里を小郡と為す」とあるから、千葉郡は千葉、山家、池田、三枝、糟〓(かそり)、山梨、物部の七里で中郡に属し、各里は「凡そ五〇戸を里と為し、里毎に長(おさ)一人を置く、戸口を按(かんが)へ〓(おさ)め、農桑を課殖(おお)せ、非違を禁察し、賦役(ふやく)を催駈(うなが)すことを掌(つかさど)れ(註4)」とあるように、五〇戸をもって構成され、里長が置かれて管内の事務を掌握した。ただし五〇戸以上の場合、もしその戸が六〇戸を超過するときは、五〇戸で一里を編成し、残余の戸で一里を組織してこれを餘部(あまりべ)(註5)といった。例えば印旛郡は一〇里と餘部から成っていたごとくである。
しかしこのような人為的な制度は従来の自然村落―邑(むら)組織―を破壊し、種々の不便や衝突が生じやすかったであろうから、七〇年後の霊亀元年(七一五)には里を郷と改め、その下に里を置いた。すなわち国、郡、郷、里となったわけで、郷は行政上の村落単位、里は村落生活の実際に即した集落で、その長はそれぞれ郷長、里正といい、その下に五戸一保が結成され、保長がこれを監督した(註6)。
千葉市内にも以上のような集落が幾つか存在していたであろうことはほとんど疑いないけれども、この時代の記録は全く壊滅して今に伝わるものがない。それゆえ暫く『正倉院文書』所収養老五年(七二一)下総国葛餝郡大嶋郷の戸籍(二―二九表参照)を検討して、この時代の下総地方における村落構成の内容を窺うことにしたい(註7)。
甲和里 | 戸肆拾肆(しじゆうし) | 合□肆佰伍拾肆(しひやくごじゆうし) | □壱佰壱拾課(いつぴやくいちじゆうか) | □参佰肆拾肆(さんぴやくしじゆうし)・不課(ふか) |
仲村里 | 戸肆拾肆 | 合□□□□□□ | □□□□□課 | □弐佰伍拾伍・不課 |
嶋俣里 | 戸肆拾弐 | 合回参伯漆拾(さんびやくしちじゅう) | □壱佰弐課 | □弐佰陸(ろく)拾捌(はち)・不課 |
計 | 一三〇戸 | 約一二三六人位? | 約三一八人位? | 八六七人 |
備考 | 郷長は甲和里の房 | 甲和里の里正は郷戸主孔王部荒馬 | ||
戸主孔王部志己夫 | 仲村里の里正は郷戸主孔王部塩 | |||
嶋俣里の里正は郷戸主孔王部小刀良 | ||||
郷戸合伍拾・里三 | 課 □□□□□ | 不課捌佰陸拾漆(ふかはつぴやくろくじゆうしち) |
大嶋郷は現在の東京都江戸川区小岩から柴又にわたる付近を指すものと考えられるが、当時そこには甲和、仲村、嶋俣(しままた)の三里があった。
その総戸数は計一三〇戸、総人口は仲村里が蝕字しているためにわからないが、仲村里が甲和里と嶋俣里の人口の中間にあるものと仮定して計算すると大約一、二三六人位、内訳は課口また不明であるが大約三一八人位、不課口は八六七人、合計一、一八五人である。しかし簡末には「郷戸合伍拾」とある。この意味は五〇戸が戸主のいる家(これを郷戸という)で他の八〇戸はおのおのの郷戸から分かれた家(これを房戸という)である。すなわち一郷戸の下に幾つかの血縁につながる房戸があって、各戸はそれぞれ家族と財産とを所有し、半独立した生計を営んでいたのであって、すでに氏族的大家族制が、房戸の分立によって漸次崩壊しつつあったことを示している。この戸籍断簡には郷戸二三、房戸四一の内容が記されているが、各郷戸に付属する房戸の数は全くないものから五つの世帯をもつものまであって、そのうち、二世帯を付属する郷戸が最も多く、これにつづいて一~三の房戸を所有している場合が普通となっている。更に戸内の家族人員を点記すると、例えば孔王部(あなほべ)真呰を中心とする大家族にあっては、郷戸の家族は四一人という多数を擁し、その中に奴婢各一人を隷属させて相当の富裕を誇っているが、その房戸の家族はずっと少なく一〇人と七人からなり、ことに孔王部熊の世帯では課口わずかに一人、不課口六人であるから、彼の生計はかなり苦しかったことが想像される(二―三〇表)。
二―三〇表 郷戸主孔王部真呰の家族数と課口数
房戸数 | 瀕度 |
5 | 一 |
4 | 〇 |
3 | 五 |
2 | 八 |
1 | 六 |
0 | 三 |
戸主 | 部名 | 家族数 | 奴数 | 婢数 | 課口数 | 不課口数 |
郷戸主 | 孔王部真呰 | 四一 | 一 | 一 | 六 | 三七 |
房戸主 | 孔王部真秦 | 一〇 | 〇 | 〇 | 六 | 四 |
房戸主 | 孔王部熊 | 七 | 〇 | 〇 | 一 | 六 |
また郷戸主孔王部佐留を中心とする家族にあっては、二―三一表のように房戸主孔王部小国の世帯は全員不課口となっている。このように大嶋郷の戸籍六四戸においては、各戸の人数が大小さまざまで、郷戸主孔王部真呰の四一人の大家族から、房戸主孔王部綾〓の二人に至るまであり、かつ郷戸主私部(きさいべ)真呰の家では、課口五人不課口九人計一四人で、この中に妾二人をいれ、前記孔王部真呰の家では奴婢各一人を擁しているのに、全員不課口の孔王部小国の家では、小国が癈疾、耆女一、小女一、丁女二、緑児一、緑女一となっており、房戸主私部伊良売の世帯は全員女子でこれまた不課口であるというように、各戸の間には相当著しい貧富の差があったことが知られる。これが八世紀前半における下総地方農民の家族構成の実態であるが、四一人もの大家族が果たして同一家屋内に居住し得たであろうか。この疑問に対しては、往時の葛餝郡内に属する東京都板橋区小豆沢町志村において発見された大小三一戸の真間式期の竪穴住居址の状態が解決を与えるであろう。
戸主 | 部名 | 家族数 | 奴数 | 婢数 | 課口数 | 不課口数 |
郷戸主 | 孔王部佐留 | 一五 | 〇 | 〇 | 三 | 一二 |
房戸主 | 孔王部子諸 | 五 | 〇 | 〇 | 三 | 二 |
房戸主 | 孔王部小国 | 七 | 〇 | 〇 | 〇 | 七 |
同遺蹟の竪穴は「方形で四本柱とする形式であるが、ほとんど例外なく北壁に接してかまどを築き、しかも竪穴の規模が実に大小はなはだしく違うものがある。最小の第八号竪穴は面積わずかに七平方メートル、柱穴はなく南側の出入口より正面のかまどに至る踏み固められた土床の左右に一人ずつ寝られるだけの広さで、かまどには煤けた炊事用の甑(こしき)が残っているので、二人以下の一世帯が当然考えられるであろう。他方最大の第一号竪穴は拡張された結果、八本柱となり、面積は前者の一〇倍近い六八平方メートル、かまどに通ずる土間の左右に小房を分ち、間仕切の址が柱に達する掘り込みとして認められる。かまどに直面する小房は土器をおびただしく出し、窪穴などもあって、厨房と考えられるので、他の小房に全部寝るとすれば一二人、中間にある四部屋のみとすれば八人を入れうるのである。
更にその中間型として四本柱の竪穴があるが、全体を通じて出土する遺物は土器のほか、鉄製刀子、刃物らしい鉄片、鉄滓、土製紡錘車、砥石、軽石がまれに見出されるにすぎず、家の構えの大小が身分的差異を現すものではないことを知るのである。かまどと甕のセットはその土器にもみの圧痕が認められることとともに、稲作が行われ、穀物(恐らく米)を定時的に炊(かし)ぐ生活と、その規則的な消費に対応する生産の存在を考えられるので、ここでは農業は既に主要な生産部門となっており、また、それがこの密集した聚落を存在させる条件でもある。
すなわちここは農村であって、耕地としては台地下の谷にあった湿地(現在泥炭層として認められる)に、田が作られたことが想像されるのである。(中略)竪穴の規模こそ大小様々であるが、北壁に一個所づつ造りつけられた竈の大きさには大差がなく、竈にかけられた炊事用具のセットをなす甑と甕の容量に殆んど変りがない。(註8)」
すなわち、最大の竪穴も最小の竪穴も、そこから発見された炊事用具としてのこしき(甑)やかまどの大きさに変化がなく、またいずれも一つのかまどを使用したとすれば、最大の竪穴は恐らく郷戸主か房戸主が住み、左右の小房はこの家の人数だけで使用したものではなく、恐らく大家族の協同作業場としての役割をも兼ねていた小住居群であったろう。これとほぼ同時期の市内の農村の状態を示すのが、既述の宮崎第一遺跡の七戸、大森第一遺跡の九戸、大森第二遺跡の一一戸の住居址群である。いま参考までに、それぞれの住居址の規模を表示すると二―三二表のとおりである。これが七~八世紀ころの農村集落の実態であって、竪穴の大きさは最小三人から最大七、八人を収容し得るほどの面積を有し、それ以上の家族をもつ戸は、戸主の住む家の周囲に幾つかの側家を作っていたものと考えられ、戸数と家屋の数とは必ずしも一致するものではなかった。また富のへだたりも各竪穴内に遺存した調度の様子から判断すると、それが文化的にはなはだしい相違を示すまでに至らずして、ただ経済的な差異にとどまっていたこと、戸主の統制下に協同して耕作にあたり、土地及び財産はある程度共有されていたことを窺うことができるのである。
2―32表 真間式期の住居址の規模
住居址番号 | 形状 | 規模m | Pit | 主柱穴 | 推定時期 |
8C | 方形 | 3.40×3.30 | 4 | 4 | 真間 |
20 | 〃〃 | 3.25×3.20 | 21 | 0 | 〃〃 |
23 | 〃〃 | 3.70×3.68 | 2 | 0 | 〃〃 |
29 | 〃〃 | 外5.60×5.30 | 5 | 1 | 〃〃 |
内4.65×4.10 | 5 | 1 | |||
33 | 〃〃 | 5.00×4.75 | 4 | 3 | 〃〃 |
36 | 〃〃 | 4.50×4.20 | 5 | 4 | 〃〃 |
40 | 〃〃 | 3.70×3.40 | 0 | 0 | 〃〃 |
4 | 方形 | 5.00×? | 6 | 4 | 真間 |
12 | 〃〃 | 4.00×3.70 | 4 | 4 | 〃〃 |
14C | 〃〃 | 5.00×? | 5 | 2 | 〃〃 |
15 | 〃〃 | 4.50×4.20 | 4 | 4 | 〃〃 |
16B | 長方形 | 5.50×5.00 | 4 | 3 | 〃〃 |
16C | 方形 | 3.00×2.90 | 1 | ? | 〃〃 |
18A | 不整方形 | 5.60×5.00 | 4 | 4 | 〃〃 |
19 | 長方形 | 5.00×4.50 | 4 | 4 | 〃〃 |
29 | 方形 | 4.80×4.70 | 4 | 4 | 〃〃 |
3 | 方形 | 5.20×5.00 | 4 | 4 | 真間 |
4 | 〃〃 | 5.60×5.50 | 4 | 4 | 〃〃 |
18D | 〃〃 | 5.90×5.60 | 4 | 4 | 〃〃 |
21C | 〃〃 | 6.50×6.38 | 5 | 4 | 〃〃 |
22 | 〃〃 | 5.50×5.20 | 5 | 5 | 〃〃 |
39 | 〃〃 | 5.30×5.00 | 7 | 5 | 〃〃 |
40A | 〃〃 | 5.30×5.10 | 4 | 4 | 〃〃 |
51 | 〃〃 | 4.70×4.00 | 4 | 4 | 〃〃 |
56 | 〃〃 | 4.00×3.70 | 5 | 5 | 〃〃 |
57 | 方形? | 4.30×4.20 | 5 | 5 | 〃〃 |
67 | 〃〃〃 | 5.10×? | 4 | 4 | 〃〃 |
(『京葉』)
2―157図 真間式期の宮崎第1遺跡の遺構配置図 (『京葉』)
さて再び大嶋郷の戸籍にもどって、奴婢の全人口に対する割合を見るとそれはわずかに一パーセントにすぎず、奴一人、婢二人、寄口一人しか見あたらない。このことは山城国出雲郷の約一八パーセント、筑前国川辺里の約一〇パーセント、美濃国の諸村落の平均約四・六パーセント、豊前国の約三・六パーセントに比較すると、はなはだ小数であり、また名の上に冠する部の名称を見ると、四五四人中三八五人までが孔王部を名のっている。このことは下総国倉麻郡(相馬郡か)意布(おふ)郷養老五年戸籍断簡における奴一婢二、七〇名中藤原部を名のるもの六五人や、同国〓托郡(香取郡か)少幡郷養老五年戸籍断簡における奴二、一六名中壬生部を名のるもの一六名という数字にも示されるように、下総地方の村落には他の先進地方に見られないほど濃厚な原始的血縁集団のなごりが、奈良朝中期に至ってもなお持続されていたことを物語っている。更にこれらの戸籍やさきにみた住居址群に見られるような当時の農村社会における真の結合は、郷・里のような複雑な行政上の組織を通してではなくして、里の中に幾つか存在した血縁中心の自然聚落―村―を単位として行われていたであろう。それは『続日本紀』神護景雲二年(七六八)八月庚申の条に、下総国結城郡に小嶋村、常陸国新治郡に浮嶋村のあることを伝え(註9)、『常陸国風土記』に見える下総国浮嶋村は、
「乗浜里(のりばまのさと)の東に浮嶋村あり。長さ二千歩、広さ四百歩あり。四面絶海(しもうみ)なり。山野交錯(まじは)り、戸一十五畑、里七・八町余あり。居る所の百姓(おおみたから)、塩を火(た)きて業(なり)と為す。九つの社ありて、言(こと)も行(わざ)も謹諱(つつし)めり(註10)。」とあり、一五戸をもって一村を成しその面積七~八町で九つの神社があった。すなわち、当時の村は幾つかの小社を中心に共同の営みを続けながら、そこに古い血縁的な紐帯を形造っていたのであって、ただ人為的には律令制下の里正や郷長に統率されていたのである。例えば御野(美濃)国山方郡三井田里においては八九九人の人口を擁し(七〇二年)、下総国大嶋郷では一、一八五人前後の人が住んでおり、遠江国浜名郡新居郷(七四〇年)では、六七七人の人口があったのであって、かかる多数の人口が当時一つの自然村を形成していたのではない。
以上のように史料ないし遺跡に見られる庶民の生活を山上憶良は『貧窮問答』において
伏廬(ふせいお)の曲廬(まがいお)の内に直土(ひたつち)に、藁解(わらと)き敷きて父母は、枕の方に、妻子(めこ)どもは、足の方に囲み居て、憂い吟(さまよ)い、窯には火気(けぶり)ふき立てず、甑(こしき)には、蛛蜘の巣懸(か)きて飯(いい)炊く事も忘れて、ぬえ鳥の、呻吟(のどよ)び居るに、いとのきて、短き物を端截(はしき)ると、いえるがごとく、楚取(しもとと)る里長(さとおさ)が声は寝屋処(ねやど)まで、来立ち呼ばいぬ、かくばかり、術(すべ)無きものか世間(よのなか)の道。
と詠(うた)っている(註11)。
2―158図 真間式期の大森第1遺跡の遺構配置図 (『京葉』)
以上のように、市内の所々において律令制時代に降る数カ所の住居址群を見ると、そこにかつてかなり大きな聚落が営まれていたことを推定すると共に、その聚落の内容が大嶋郷にちかい様相を帯びたものであり、かつ彼ら住民を貴重な経済単位として持っていたであろう豪族の、今は奥津城となって点在する墳壟を見る度に、「宜(よろ)しく戸頭の百姓(おおみたから)に種子各二斛、布一常、鍬一口を賜ひ、農蚕の家をして永く業を失うこと無からしむべし」とあるように物資の希なる配給に甘んじて(註12)、黙々と農耕に従事し、祖・庸・調の課税に耐え、雑徭(ぞうよう)に従い、あるいは兵役につき、又は豪族の威脅を憚(はばか)り、口を鉗(つぐ)んで労役に奉仕した庶民の、悲しくもまた素朴な心情を回想するのである。
(武田宗久)
【脚註】
- 『日本書紀』大化二年正月条。「大宝令」には「其大領少領、才用同者、先取二国造一」とあり、『類聚国史』には「昔難波朝廷、始置二諸郡一、仍択二有労一、補二於郡領一、子孫相襲永任二其官一。」とある。
- 「謹解(つつしんでげす)、申(もうし)二請(こう)海上郡大領司任奉一(につかえたてまつらんと)事。中宮舎人左京七條人、従八位下海上国造他田日奉部直(おさだひまつりべあたひ)神護我(が)下総国海上郡大領司爾(に)仕奉止(と)申故波(は)、神護我(が)祖父小乙下忍、難波朝廷少領司爾仕奉支(につかえたてまつりし)、父追広肆宮麻呂飛鳥朝廷少領司爾仕奉支、又外正八位上給弖、藤原朝廷爾大領司爾仕奉支、兄外従六位下勲十二等国足、奈良朝廷大領司爾仕奉支、神護我仕奉状、故兵部卿従三位藤原卿位分資人、始二養老二年一至二神亀五年一十一年、中宮舎人、始二天平元年一至レ今廿年、合卅一歳、是以祖父父兄良我(らが)仕奉祁留次爾在故爾、海上郡大領司爾仕奉止申。」(『正倉院文書正集』第四四巻)『大日本古文書』巻三所集
- 『続日本紀』文武天皇「大宝三年七月甲午、正五位上上毛野朝臣男足為二下総守一。」が初見である。正倉院文書には註2にあるとおり、少領他田日奉部直給弖同少領宮麻呂、同大領国足、同大領神護があり、『万葉集』には少目下総防人部領使県犬養宿禰浄人(巻二〇)を載せている。また千葉国造大私部直善人は『日本後紀』に「前上総介石川朝臣道成、大掾千葉国造大私部直善人、並授二本位一。」(大同四年三月条)とあり、上総国司の三等官となっているが、これはすでに清宮秀堅も述べているように(『下総国旧事考』巻四)下総国司の誤であろう。
- 『日本書紀』孝徳天皇大化二年春正月、甲子一日の条
- したがって五〇戸以上六〇戸以下の里や、五〇戸未満の里もあった。
- 里そのものは改新以前にすでに存在していた。改新の詔の第四に「凡そ仕丁(つかえよぼろ)は、旧(もと)の卅戸毎に一人せしを改め、五〇戸毎に一人を以て諸司に充てよ。」とある。この場合の三〇戸一里の制は改新前の行政上の規準であるが、実際はムラ(村・邑)と呼ばれて大小種々であったことはもちろんである。
- 『大日本古文書』巻一、二一九―二九一ページ
- 和島誠一「原始聚落の構成」『日本歴史学講座』、二一―二四ページ
- 「仰二両国一、掘レ自二下総国結城郡小塩郷小嶋村一、達二干常陸国新治郡川曲郷受津村一一千余丈、」云々
- 『常陸国風土記』信太郡の条
- 『万葉集』巻五
- 『続日本紀』巻九。養老七年二月丁酉条