第二項 千葉市付近の郡郷

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 改新時に定められた国・評・里の制度はその後大宝律令制定(七〇二年)以後国・郡・里となり霊亀元年(七一五)の式によって里を郷と改め、その下に平均三つの里が置かれることとなったが(註1)、下総国大嶋郷の戸籍(七二一年)においては、既述のように甲和、仲村、嶋俣の三里が郷戸において五〇戸であり、令に規定された里と一致する。しかしその内容は各郷戸がそれぞれ若干の房戸を内包して組織され、それらが各里の中に含まれて四四、四四、四二の戸数を示し総人口約一、一八五人から成っていた。このような複雑な構成をもつ地方行政組織はその後間もなく廃止されたものと見えて、天平十二年(七四〇)以後の史料には里が現れず、国、郡、郷に区分され、ながくこの制度が慣行された(註2)。
 『延喜式』『倭名類聚抄』などによれば、当時下総国は耕地面積(田)二六、四三二町六段二畝三四歩、一一郡九一郷に分かれ、千葉郡には千葉、山家、池田、三枝、糟〓(かそり)、山梨、物部の各郷があった。したがって一郷の耕田面積は平均二九〇町強となる。このうち山家郷は一般に船橋市二宮町にある三山神社を中心として花見川以西船橋市に接する地域で、船橋市の東南部より習志野・八千代両市から千葉市幕張にわたると考えられ、幕張町大字馬加(まか)は「也末加(やまか)の省訓と見ゆ(註3)」との説を妥当とするけれども、一説には千葉市誉田、白井、更科付近すなわち上総国山辺郡に隣接する地域ともいわれる。また、山梨、物部二郷は現在の千葉市北東端から主として印旛郡下に所属している地帯で、いわゆる千葉野の外側鹿島川の西側にあり、山梨郷は四街道町・八千代市の西端に広がり、四街道町字山梨の地名を遺す。物部郷は山梨郷の北に接続して八千代市の大部分がこの郷内に属し、大字物井は物部の転化であるとされ、鹿島川をへだてて東に旧印旛郡内餘戸(あまりべ)郷と相対す。すなわち王朝時代における千葉郡の東境はこの鹿島川をもって限られていたことが知られるのであるが、山梨、物部二郷が果たして氏姓制度時代から千葉国造ないしその一族の支配を受けていたかどうかは、はなはだ疑問とするところで、むしろ『旧事本紀』にいうところの伊都許利命(いつこりのみこと)の後裔を氏族長として仰ぐ地帯であったろうと思われる。
 前記の諸郷を除いた千葉、池田、三枝、糟〓の四郷こそ当時の千葉郡内の郷名で、耕田面積およそ三、一六〇町歩人口四千八百人前後を数え、千葉郷はその名称のとおり千葉郡家の所在地で、千葉国造の後裔大私部氏の本拠とする所であった。しかしながら、これら各郷の配置については従来諸家おのおの説くところがあって定説を見ず、ことに千葉、池田両郷の境域は二―三三表のようにはなはだしく異なる。
2―33表 千葉郷と池田郷
郷名
書名
池田郷千葉郷
坂東観音霊場記(明和3年)千葉の里
相馬日記(文化14年)千葉の里
千葉実録(?)千葉郷(池田郷を千葉郷と改む)
千葉盛衰記(?)千葉町
下総国旧事考(弘化2年)千葉と寒川との間の地千葉町
成田参詣記(安政5年)千葉と寒川との間の地千葉町
日本地理志料(明治36年)千葉・寒川・登戸・矢作・五反保・今井・曽我野・生実・浜野千葉寺・仁戸名・川戸・和佐・川井・富岡・大森・小花輪・遍田・平山・野呂
大日本地名辞書(明治40年)千葉町(千葉郷の北糟瓜郷の西三枝郷の南)千葉寺より生実・浜野に至る一帯
千葉誌(明治44年)都川以南寒川に至る迄の地(池田郷は千葉郷より先にあった名称)
千葉郡誌(大正15年)都川以南寒川に至る迄の地(池田郷を千葉郷と改む)
金石史上より見たる中世以前の千葉市概観(昭和19年)千葉寺小字池田より宮崎・蘇我・生実・椎名千葉寺より旧千葉村黒砂・登戸

 しばらくこれらの数著の内容を検討することにする。まず『相馬日記』には、「貝塚村を過ぎて千葉の里にいたる。(中略)此里も往古は池田郷とて大きなる池ありしこと坂東観音霊場記にしるしたり」とあり、千葉の里を池田郷の地とする。この説は『千葉家盛衰記』において「池田郷に御在城、先祖より三代目上総権の助、池田の郷を千葉町と改む」(良兼の條)と一致し、『千葉実録』に「池田郷を改名し給うことは、葛原親王の苗裔平姓なる吾が一族の繁栄を、千草の生い茂るに准じて、千葉の郷と号し給う」と説明して、中世の千葉郷が古の池田郷の地であると信じられていたことを示す。『千葉誌』及び『千葉県千葉郡誌』は右に依拠して「池田郷は千葉郷よりも先きに在りし名称なるが如くに思わる」とあるが、また一面「今の都川より以南、寒川に至るまでの間を称したるが如し、今猪鼻坂下なる市場に池田橋、池田坂と称するものあるは、当時の郷名の遺れるものか」と述べているのは、『下総国旧事考』の説を引用したものである。しかしながら『旧事考』の著者清宮秀堅は千葉郷の地を今「千葉町と称する地是なり、新田共十二町に分てり。」とし、池田郷をその南に位せしめて「千葉と寒川との間にあり」としているから、都川をもって両郷の境とするとともに、千葉郷また王朝時代以来の名称であって、中世の千葉郷が必ずしも池田郷の境域ばかりを指すものでないことを明らかにしている。思うに徳川期の千葉町は主として都川以北の低地に広がり、以南には水田をへだてて、寒川村がのぞまれ、かつ池田の称呼が猪鼻城下にあったがためにこのような配置を想定したのであろう。『成田参詣記』はこの説をそのまま採用しているにすぎない。しかるに邨岡良弼は大著『日本地理志料』において清宮の説を反駁し、千葉郷の条下には「清宮氏曰く千葉郷廃し今千葉町存すと。弼謂(おも)えらく千葉町南一里に千葉寺村有り千葉寺建つ。(中略)寺号は即ち郷名を取りし也。千葉大系図に常広の子常定は鷲尾太郎と称し鷲宮を千葉郷に建つ。其の祠は生実村に在り以て当時の郷域を知るべし。(中略)図を按ずるに千葉寺、仁戸名、川戸、佐和、川井、富岡、大森、小花輪、遍田、平山、野呂の諸邑に亘る。蓋し其域也」といい、池田郷の条下には「更級日記に上総の今館を発して下総の以可太(いかた)に宿り末乃(まのの)長者の宅阯を観ると。可(か)・介(け)草体を以て訛る即ち池田也。末乃亦浜野を誤る。今千葉町猪鼻台に有り、即千葉氏累世虎踞の墟なり。其前門を池田坂と称し坂下を池田町と為す。是郷名の遺也。図を按ずるに千葉、寒川、登戸、矢作、五反保、今井、曽我野、生実、浜野の諸邑に亘り其故区たり」と述べて、字千葉寺より南東、都川南岸の地を千葉郷とし、池田郷は猪鼻城付近の台地から主として都川下流の沖積地全域を含むものとする。その論拠の一つは海上山千葉寺が古の郷名を取っているからであるとしているのであって、ここに両郷の配置において『旧事考』『成田参詣記』などの主張と全く相反するものあるのみならず、その四至がずっと拡張されているところに特色がある。吉田東伍博士は大体この説を継承して千葉郷は「今千葉町の南なる千葉寺より生実浜野に至る一帯を指せるならん」といい、池田郷は「今千葉町にあたる、即千葉郷の北、糟瓜郷の西、三枝郷の南なる狭地とす」(『大日本地名辞書』)とあるが、八代国治博士は、『千学集』にある「池田鏑木殿の堀の内有、御宿は御一門也」を考証して、これは池田に居られたのを池田殿、鏑木に居られたのを鏑木殿といったので、その邸宅が堀の内にあった所から、池田坂は千葉城内に池田殿の邸のあった名残りであって、池田郷の遺名ではないという意味を主張され(『房総郷土研究資料』第二〇、二一、二二輯)、従来の論拠に多大の疑問をよせた。ここにおいて服部清五郎は千葉寺区小字池田をその遺地とし、かつ千葉寺・猪鼻台地を連ねる丘陵地帯に、先史時代より中世ころまでの遺跡が見出されることから、そこを千葉国造及び千葉郡の官衙のあった位置と推定し、「現在の千葉市の大概を以て千葉郷とし、池田郷は千葉郷と千葉寺とを境として蘇我・生実・椎名の三地を含む」ものとした(「金石史上より見たる中世以前の千葉市の開化史概観(中)」『房総郷土研究』二巻四号)。要するにこれまで述べた諸書を整理すると大約次の四説となる。
 (一) 池田郷は中世の千葉郷ないし近世以降の千葉の里或は千葉町に相当する。
 (二) 千葉郷は千葉町、池田郷は千葉町と寒川村との間の土地である。
 (三) 千葉郷は千葉寺以南池田郷は主としてそれ以北にある。
 (四) 千葉郷は千葉寺以北池田郷はそれ以南にある。
 右のうち第三と第四の諸説に共通するところは千葉寺を千葉郷内に含めていることで、その有力なる論拠はいうまでもなく寺院千葉寺が頗る古い伝承とそれに相応する考古学的遺物を出土する点にある。
 次に三枝、糟〓二郷に関しては諸家いずれも作草部、加曽利の地名を中心としてそれぞれの考察を下して居るが、その範囲については必ずしも一致しない。しかしこれらの異同は以下各郷の考察にゆずる。

(武田宗久)


 【脚註】
  1. 藤原宮(六九四~七一〇年)址発掘の木簡に、「己亥年十月上挾国阿波評松里」とあり、「己亥年」は文武三年(六九九)にあたることや、『出雲国風土記』に「霊亀元年の式に依りて里を改めて郷と為せり。其の郷の名字は神亀三年の民部省の口宣(くぜん)を被りて改む」とあることによって知られる。
  2. 『大日本古文書』巻二、「遠江国浜名郡輸祖帳」天平十二年以後を参照
  3. 清宮秀堅『下総国旧事考』巻七