次に文献に現れた市内の地名からこの氏族に関係あるかと疑われるものは池田を冠する称呼であって、今主なものを摘出すれば、二―三四表のとおりである。『更科日記』所載の「いかた」は「いけた」の誤りで、それが『和名抄』『延喜式』などの「池田郷」を指すものであろうことは単に語音の転化からだけでなく、池田、千葉両郷が当時の街道に沿った地域にあったことからも推測される。『延喜式』によれば、
「下総国駅馬、井上十疋、浮嶋、河曲(かわわ)各五疋、茜津(あかねづ)、於賦(おふ)各十疋、伝馬、葛飾郡十疋、千葉・相馬郡各五疋」とあって、千葉郡内には浮嶋、河曲の駅家(うまや)があり、駅馬、伝馬各五疋を備えしめられた。当時の行程は、「公式令」に「馬日七十里、歩五十里、車三十里と定められ、「厩牧令」によると、原則として三十里(一里は今日の六町すなわち約〇、六六キロメートルにあたる)ごとに一駅を置くことになっていたから、徒歩一日の行程は今日の約二〇キロメートルである。そこで『更科日記』の寛仁四年(一〇二〇)九月十五、十六、十七日の条下を見ると、
おなじ月の十五日、あめかきくらしふるに、さかひをいでて、しもつけのくにのいかたといふ所にとまりぬ。いほなどもうきぬばかりに雨ふりなどすれば、おそろしくていもねられず。野中にをかだちたる所に、ただ木ぞみつたてる。その日は雨にぬれたる物どもほし、くににたちをくれたる人々まつとて、そこに日をくらしつ。十七日つとめてたつ。昔しもつさのくににまのしてらといふ人すみけり。ひきぬのを千むら万むら、をらせさらさせけるが家のあととて、ふかき河を舟にてわたる。むかしの門のはしらのまだのこりたるとて、おほきなるはしらかはのなかによつたてり。ひと/゛\うたよむをききて、心のうちに、
くちもせぬ このかはばしら のこらずば
むかしのあとを いかでしらまし
その夜はくろとのはまといふ所にとまる。かたつかたはひろ山なる所の、すなごはる/゛\としろきに、松原しげりて月いみじうあかきに、風のをともいみじう心ぼそし。人々おかしがりて、うたよみなどするに、
まどろまじ こよひならでは いつか見む
くろとのはまの 秋のよの月
そのつとめてそこをたちてしもつさのくにとむさしとのさかひにてあるふといかはといふかゞみのせまつさとのわたりのつにとまりて、夜ひとよ舟にてかつ/゛\物などわたす。
とあり、宝亀二年(七七一)十月以来すでに東海道の支道となってさびれた下総地方沿道の光景を偲ばせてくれる(註2)。
その要点を記すと、彼女(上総介菅原孝標の娘某)は九月十五日に両総の境を通過してその夜は池田郷内に泊った。そこは「野中に丘だちたる所に木ぞ三つ立てる」場所であったから、平野の中で見晴しがよく僅かに高くなっており木がまばらに生えていた所で、一晩中雨にたたられて寝られなかった。翌日は立ちおくれた人々を待って一日を過し、もう一晩泊って翌十七日早朝出発し、深い河を舟で渡ったが河道の変せんがあったものと見えて、まのの長者の家の門の柱のあとといい伝えるものが河の中に四つ立っていた。その夜は黒戸の浜に泊った。そこは背後に小高く広々とした山々を控え、前は白砂青松の海浜が開けていて、月のよい晩であった。十八日早朝出発し太日河(今の江戸川)の岸にある松里の渡の津(松戸附近)に泊った。というのであって、これを素直に解釈すれば池田郷と他の郷との川境に駅家があったこと、そこは都川の屈曲部で往々河道が変化していたことを示唆し、河曲駅という名称がぴったりとあてはまるのみならず、当時の里程から見て最も妥当な位置にある。
名称 | 文献 | 摘要 |
いかた | 更科日記 | 下野(下総か)の国いかたという所にとまりぬ。 |
池田郷 | 千学集 | 下総千葉庄池田郷千葉寺。 |
池田郷 | 千葉実録 | ①池田郷に居住する吾が弟良兼。 ②下総国葛飾郡池田郷に新城を築き移り給う。(忠常の条) |
池田郷 | 千葉家盛衰記 | 池田郷 今の千葉町なり に亦新城を築き移り給う。(忠常の条) |
池田郷 | 相馬日記 | 此里も往古は池田の郷とて大きなる池ありし事は、坂東観音霊場記にしるしたり。 |
池田郷 | 千葉寺縁起 | 元明天皇の清世行基菩薩諸国遊化の際、当地池田の郷を過ぐる。 |
池田坂 | 下総国旧事考 成田参詣記 | 猪鼻山に登る坂を池田坂と称す。 |
池田橋 | 千葉誌 | 今猪鼻坂下なる市場に池田橋、池田坂と称するものあるは、当時の郷名の遺れるものか。 |
池田 | 千学集 | 下総千葉庄池田堀内北斗山金剛授寺。 |
池田 | 千葉実録 | 三隅田 今は市場高徳寺田なり、是を池田の三隅田という。 |
池田 | 妙見実録千集記 | ①千葉湯之花の城下に池田の池とて清浄の池あり。 ②鏑木殿と申すは池田と云う也。堀の内に屋敷あり。 |
池田 | 千葉市旧新地名地番対照表 | 大字千葉寺字池田。 |
2―159図 古代の駅制
都川下流が現在のように猪鼻台地の北岸を削って裁判所前―県庁公園裏を通過して海洋に向かうようになったのは中世のことに属し、少なくとも王朝時代のころまではずっと北方を迂回して千葉市民会館付近の低地を回っていたはずであり、現在の葭(よし)川がほぼ往時の都川下流の名残りを止めているものと考えている。もしこの見解が許されるならばそこは絶えず都川の侵蝕を受け、往々氾濫の憂のあり得た場所であり、かなりの水深を保っていたことを想像するに難くない。そして旧都川がかかる流路をとった原因の一つは猪鼻の先端から北方に向かって発達していた古い砂嘴の痕跡によるものであるから、河曲駅はこの砂嘴の先端すなわち現千葉神社近傍にあったものということができ、孝標の一行が九月十五、十六日に宿泊したときの情景に「野中に丘だちたる所に木ぞ三つたてる」とあるのはまさにこの附近のことを指しているものと考える。
2―160図 千葉市街周辺における地形上の変遷と郷名
さて十七日の宿舎は黒戸浜であったが、そこは松の生い茂っている砂丘のような感じのする所で、これを現在の黒砂附近とすると河曲駅から約一里前後となり、例え道を迂回したとしても、早朝出発したにしてはあまりに近距離となり、一日の行程としてはどうしても不都合を感じる。
一体彼女が旅行したのは一三歳のときであるが、日記を書いたのは五〇歳を過ぎてからのことであるから、記憶に不確かな所が多く、例えば武蔵と相模との間にあすた川があったり、清見が関を越えて田子の浦を漕ぎめぐったり、大井川を越してから富士川を物語ったりするという矛盾を随所に見受けるのであるが、上総国府には幼いころとはいえ四年も住んでいたのであるから、房総地方の状況はことのほかに詳しくそれだけに信用してよいものがあると見なければならない。そうすると「まのの長」といい「黒戸の浜」といい、あまりに現在の地名に拘泥して解釈し、それがために文意を失うようなことがあるのは避けなければならない。すなわち「まの」を「浜野村」と解し、そこに「長者やしきと云ふあり、此ことなるべし、まのの長とは浜野の長者と云の省かりしなるべし(註3)」の類であるが、「浜野村は往古浜村と称し元禄十四年浜野村と為(註4)」したのであるから、こと更に彼女の記憶を疑うことなしに解釈すれば、やはり都川の屈曲部にあったものとすべきであろう。また当時黒戸浜といったのは、単に現今の黒砂付近というような狭い一局部に限ったことではなくて、船橋、津田沼、幕張、検見川、稲毛、黒砂、寒川等に続く一帯の汎称であると見るのが適当ではないかと考えられる。それはちょうど中世に花山院藤原師賢卿が下総に流され(元弘二年)、千葉介貞胤にあずけられた歌の中にある「形見の浜」が、千葉市より市原市にわたる内海の称呼であると解され、また袖ケ浦が現在の千葉市沿岸の汎称であるのと同じである。
以上の観点からすれば、彼女が十七日に泊った黒戸浜はその一日の行程から換算して、黒砂付近よりもずっと北西方の海浜地帯となるから、恐らく船橋市の津田沼寄りから本市内幕張町にかけてのどこかに推定さるべきであろう。「浮嶋の駅」は一説に幕張付近とも東京都南葛飾郡小松川付近とも茨城県古河付近ともいわれるが、河曲駅と下総国府(市川市国府台)との中間にあったものとすれば、彼女の泊った黒戸浜とは、この「浮嶋の駅」の駅家であったろう。
池田郷の北限を旧都川下流にあったとする見解はこれをほかの資料からも立証することが可能である。その一つは『千学集』所載の「下総千葉庄池田堀内北斗山金剛授寺」なる字句であり、その二は大宮町坂尾の栄福寺蔵
下総州千葉庄池田郷北斗山金剛授寺
妙見大縁起供分福寿坊常住四位尊栄
寄進本庄伊豆守胤村(朱印)九月吉日
なる奥書を有する妙見縁起絵巻であり、その三は名古屋市森川勘一郎氏所蔵青銅製釣燈籠(重要美術品)に
奉寄進妙見大菩薩
御宝前灯爐事
□□ 総国千葉庄
池田郷内尊光院
天文廿一年壬子二月七日
大檀主牛尾和泉守平胤智
なる銘文を有することであり、その四は、金沢文庫所蔵本中に、元亨二年(一三二二)「下総国千葉庄池田郷□須賀閻魔堂別院」とあることである。
2―161図 妙見縁起絵巻奥書 (栄福寺蔵)
「金剛授寺」は「北斗山金剛授寺尊光院」ともいい、千葉妙見宮の別当寺で後に「妙見寺」と改めたが、その創立年代は明らかでない。しかし『千葉伝考記』には大治二年(一一二七)九月十日とあるから、恐らく猪鼻城築城後間もなく妙見尊を本城から現在の地に移し、そこに妙見宮と共に金剛授寺その他を建立したものと思われる。そしてこの寺の位置は千葉庄池田郷堀内にあったというのである。一体堀内という文字は『千学集』にしばしば現れるが大体二様の場合に使われているようである。一つは内堀に相当する範囲で、「むかし妙見大〓屋形御堀内におはしますときは」とか、「千葉の守護神は曽場鷹大明神、堀内牛頭(ごず)天皇、結城の神明、御達報の稲荷大明神、千葉寺の竜蔵権現是なり」とかある例であって、牛頭天皇を祭る小祠は今千葉大学医学部付属病院構内にあるから、これらは猪鼻城内を指すものであるが、ほかは「千葉堀内御仮屋」とか前記「池田堀内金剛授寺」という例で、これらは城外の或る区画すなわち外堀ないしは千葉一族が自衛のために堀、柵、塀などを構えて居住した館に相当する範囲を言ったのではないかと疑われる。
とにかく金剛授寺すなわち現在の千葉神社の付近が、王朝時代より一六世紀後半ころまで依然として池田郷内に属していたということは、『更科日記』の考証及び前記四つの有力な資料によって、もはや動かせない事実であると共に、『千学集』の「池田堀内」なる記載が「池田郷堀内」を意味していることも明らかとなる。したがって「千葉堀内御仮屋」の地もまた池田郷内にあることはもちろんであるが、更に「同書」に「下総千葉庄池田郷千葉寺」とあるは、明治四十三年千葉寺村畑野勇治郎氏方竹藪中から発掘した青銅製六角形梅竹透釣燈籠(口絵第二七図参照)に左記の如く
下総国千葉之庄
池田之郷千葉寺
愛染堂之灯爐
太旦主牛尾兵部少輔
天文十九年庚戍七月廿八日
の銘文があり、この傑作が原家の一門たる仁戸名三郎左衛門の子牛尾兵部少輔によって(註5)、一五五〇年子息某の修業する池田郷千葉寺愛染堂の堂前に奉納されたものであることを示している確証によって、千葉寺が同じく池田郷内にあったという事実を再確認することができる。それ故さきにあげたほかの諸文献に見える「池田郷」「池田坂」「池田橋」「池田」なる称呼も、おおむね往古からの郷名を伝承させているのである。しかしながら池田郷の名称が、前述のように必ずしも大化前代の池田氏族に由来するものと断定するわけではない。右に掲げた「池田」を冠する称呼の分布をみると、都川下流の沖積地や猪鼻丘陵の辺縁にある点に留意して、そのあたりに住んでいた弥生式時代以降氏姓制時代の農耕民が、残し沼のような湿地帯を干拓して開いた湿田の多い所という意味で、いつのころからか池田と呼ぶようになったとも考えられる。
このあたりの水田農耕は王朝時代になると一段と進歩し、猪鼻丘陵の突端部から本町通りを北に向って発達した砂嘴(さし)や都川の自然堤防、長洲町から蘇我町に至る浜堤(ひんてい)、塩田・浜野・村田・古市場町等の村田川のデルタ地帯には、いくつもの農・漁村が点在し(註6)、海と陸の幸(さち)に恵まれるところとなったのみならず、千葉神社の前身北斗山金剛授寺の近くには河曲の駅家が置かれて、そこが上総国府と常陸国府・上総国府と下総国府を結ぶ両官道の分岐点にあたる交通上の要衝となり、加えて都川河口は武相方面から下総にいたる海港ともなっていたから、経済的にも文化的にも優れた地域であった。
池田郷の範囲は、市内随一の古刹千葉寺を中心として、北は葭川の屈曲部(旧都川本流)を限り、南は両総の境をなす村田川に至り、東は市内鎌取町付近まで、西は東京湾の海浜に達する広大な地帯であって、その北半部は氏姓制時代の千葉国造の領域に属し、南半部は菊間国造の支配下にあったが、大化改新時の行政改革により、村田川をもって両総の国界と定められた結果、南半部が千葉郡下に編入されて北半部と合併し、池田郷となったものと思われる。