いずれにしても本郷はその称呼からして千葉国造居住の故地と考えられ、王朝時代にはいささか池田郷に繁栄を奪われたとはいえ、依然街道に沿う地帯として相応に人口が集中していたことであろう。今この地帯にある千葉という字名をひろってみると穴川町、轟町、松波町にかけて大字千葉字穴川とあり、弁天町には大字千葉字中島、大谷、吾妻台、砂山、扇谷、北池上、西池上、砂崎、春日町には大字千葉字穴川などが目だち、作草部町には字千葉台がある。もちろんこれらの中には千葉家領有以後地名変更によってつけられたものも有り得るとは考えられるけれども、『万葉集』所載の「知波乃奴(ちばのぬ)」(千葉野)は大体千葉郡の東北部を漠然と指したものと思われるから(註7)、一概に千葉という字名を千葉家に関係づけて解釈するよりも、古い称呼の残存として考慮すべきである。
園生町字長者山石堂作にはかつて千葉氏一六代の五輪石塔があったが、寛文十年千葉、園生間に境界争いがあり、千葉村民が夜陰に乗じてひそかにその墓石を大日寺境内に移したという伝説を生じているが(註8)、同所は明治三十九年安川辰蔵の発掘調査があり、封土を有する一四基の古墓と五箇の壺とが発見され、その中の字西街道所在の一基は石室墳で一号二号計四箇の壺を、他の一基から三号壺を発見したと報じている(註9)。図示された土器の形態及び着色の工合よりすれば、壺はいずれも細長い胴とせまい平底の甕形でその上に蓋坏を乗せたものと、ないものとがあり、一号の壺は二箇とも黒灰色を呈し蓋坏は赤褐色、二号、三号は蓋身ともに全て赤褐色に着色されている。しかしこれらの壺が発掘時にいかなる状態の下に置かれていたかは全く説明するところがない。しかるに右に類似する土器形態の出土例は従来武蔵、相模方面において十数例報告され、千葉市内では、誉田町旧春日神社境内から発見され、発掘状態の明らかなものもあるから、今その中の代表的な数例を挙げて本遺物の究明に役だたせようと思う。すなわち東京都大田区久ケ原小学校敷地内出土のものは二―一六二下図のような形態を備え、表土下一・二メートルの所に接近して二箇見出され、皿形を呈する須恵器の上に細長い土師器の甕が倒置され、周囲に木炭灰を囲繞充填させた状況の下に発見され、一箇は破壊棄却されたが、他の一箇の内容は火葬した成年男子一体分の骨灰及び骨製釵子一箇が検出されたといい、東京都秋川市の瀬戸岡第五号墳においては同様な壺二箇が末期的竪穴式石室墳の内部に発見され、また川口市安行字吉岡出土のうちの一箇は、須恵器の破片を蓋として倒位埋没されていたと報告されている(註10)。以上によってこれらが南関東に行われた火葬蔵骨器で合口式と単口式とがあり、多くの場合倒位の状態をとっていること、土器は土師器と須恵器とが使用されていること、石室墳内部に所在する例もあること、周囲に浄化の目的で木炭灰を囲繞することが往々に見られること、合口式の蓋は坏状のものを使用すること、蓋は比較的長手な甕で縮約した平底のものを普通とすること、数個が一所に発見される場合が多いことなど一つの類型同似性を保持し、自らそこに奈良末期―平安中期の間、南関東の支配層に浸潤した初期仏教の内容とする火葬思想が、かかる特色ある状態の下に蔵骨器を埋葬する風習を馴馳し、これらがやがて平安末期以降中世に流行する古瀬戸、常滑焼、備前焼などの甕を蔵骨器として用いる先駆となったものであることを観取することができるのである。したがって園生町発見の五箇の壺も、王朝時代における付近居住の豪族の火葬骨灰を収容した土師器と須恵器とから成る蔵骨器であることはいうまでもなく、これを千葉家一六代の墳墓とし、封土の上に昔五輪塔を安置してあったとするごときは、一片の物語としてのみ許さるべき性質のもので、一号及び二号計四個の壺を出土したと明記され、現に遺存する字西街道の墳墓を実見する者は、それが凝灰質砂岩の石室を有する方形墳であることを認めざるを得ないであろう。
2―162図 蔵骨器
次に花見川以南旧都川下流以北にわたる台地の遺蹟分布の状態を大観すると、幕張、宮野木、畑、朝日ケ丘方面に最も多く、これに続いて稲毛、小中台、園生付近と登戸、汐見ケ丘、弁天町にわたる台地とにそれぞれ若干の散布を見る。これらの遺蹟は畑町における泥炭遺蹟を除いてはすべて当代住民の聚落ないし墳墓に関するもののみであるから、概して台地の辺縁に近く居住地があったことを示すと共に、近傍低地に開拓された水田面積の広狭が遺蹟数に正比例しているもののようである。すなわち幕張町、宮野木、畑、朝日ケ丘付近の住民は花見川下流沿岸に、稲毛、小中台、園生付近の住民は近くの狭長な低地に、登戸より弁天町に至る台地の住民は都川北岸の砂質壌土に水田を経営していたが、花見川の農耕地が最も広く、したがって右に依存する聚落は相当に発達していたことと察せられるのであって、畑町字宮後にある子安神社本殿背後の円墳は二段築成より成る堂々たる形貌を比較的良く遺存し、近くに陪〓(ばいちょう)二基を従え、付近の字神場から朝日ケ丘、花園両町にかけてはかつてカネ塚、バンゴ塚その他大小無名の墳壟が多かったと伝え、現在この地帯には土器、須恵器などの遺物が濃厚に散布するほか、昭和二十三年度には畑町一、五〇一番地所在泥炭遺蹟より刳舟三隻、櫂六本などが発見されるなどを考慮に入れると、千葉郷の中心は恐らくこの地域にあったと思われるのである。次に稲毛、小中台、園生付近は星宮塚を中心とする千葉氏の古墳と伝承される比較的規模の小さい末期的墳壟が多く、園生町字大屋敷に鎮座する園生神社付近より字長者山にかけての一帯が当時の居住地と思われ、字西街道所在方形墳の近くには竪穴住居址の一群が道路の切断面に露出する。最後に登戸方面の台地においてはかつて明徳高等学校々庭(現千葉県農業会館敷地)にあった前方後円墳鷲塚並びに汐見ケ丘字塚山などの名称から、往時の聚落がこの台地の所々にもまた存在したであろうことを推測するに充分なものがある。とはいえ、近年住宅、公共建造物など増加のため、多くは壊滅し去ってほとんど痕蹟すらとどめない状態と化するに至っている。
2―163図 千葉市園生町西街道所在古墳実測図
これを要するに本郷の聚落は大約三地区に分かれて営まれ、あたかも令に規定される一郷三里に合致するものがあるようであるが、その中心は花見川下流沿岸の水田農耕地帯に経営主体を置く畑、朝日ケ丘方面にあり、また一部は幕張町上ノ台・宮ノ台など、当時の海岸に直面する台地上に漁撈を主とする聚落を存し、他の地域の聚落はこれに比較してかなり小規模である。このことはその前面に展開された耕田面積が狭小であることに起因する当然の結果であって、都川下流北岸の水田地帯といえども、当時においてはさほど大きな面積を有していなかったことを私たちに知らしめる。恐らく千葉、池田両郷の境をなしていたであろう都川下流の旧河道は、すでに池田郷の条下で論及したように、千葉神社北方要町付近の低地を迂回して流れていたために、北岸の可耕水田地帯に依存する本地区住民の聚落は、稲実収穫の量に制約を受けて、必然的に狭少なものとならざるを得なかったであろう。
試みに本郷の境域を現在の町名にあてはめてみると、幕張町南部、検見川町、浪花町、花園町、朝日ケ丘町、畑町、宮野木町、小中台町、園生町、稲毛町、穴川町、黒砂町、弥生町、緑町、轟町、春日町、登戸町、松波町、弁天町、汐見ケ丘町、新町、富士見町、新田町、新宿町、神明町、本千葉町などの大部分が含まれる。
本郷が千葉という名称を冠して呼ばれたとすれば、その中心と思われる畑、朝日ケ丘付近は氏姓制時代において、千葉国造の居住地と思われる。同所泥炭層中より刳舟、櫂などの人工遺物並びに昭和二十三年大賀一郎博士によって今より少なくとも一、七〇四年以前と計算される蓮実の検出に成功を収めたことは、同所低地の地形的変遷過程を知る上にも重要な示唆を与える。すなわち五世紀前半においては旧花見川湾口に砂丘が発達したために湾内の一部は潟湖となり、刳舟定泊の好適地となり得たと共に、他の大部分の土地は可耕水田地帯と化し、これらに依存して立地された聚落は相当豊かな経済的裏づけを約束できたはずである。右に関連して想起されることは和銅六年以後霊亀元年以前(七一三―七一五)の撰上になると信ぜられる『常陸風土記』の香島神社の条文である。右によれば香島の大神に奉仕する神戸は六五畑で、毎年七月に彼ら住民は舟三隻各長さ二丈余なるを造って納めたといい、また香島郡家の北に沼尾の池があって、そこに蓮が生育し、鮒鯉が住み、近くにかつて郡家が置かれたことがあるというのであって、それらの日に古式にのっとった刳舟が、神の御舟として数隻献納される習慣があったこと(註11)、利根川沿岸に氏姓制時代から引続いて古代蓮が生育していたこと、郡家の所在地は必ずしも固定していなかったこと、香取神郡の中心聚落は仮りに一戸あたり五人として三百数十人の人口を有する程のものであったことなどを知るのである。畑、朝日ケ丘付近が王朝時代において千葉郷の中心聚落であり、それが氏姓制時代からの継承であると仮定するとき、そこに発見された数隻の刳舟や古代蓮実の検出が、決して偶然でないことを、同書の記述から観取することができよう。しかしながら、そこにいかなる神社があったか、また郡家が置かれたものかどうか、という点に関しては今日これを確認する資料がない。ただしあえて推測をめぐらすならば、畑町字西口に鎮座する子安神社が、もとは社殿の背後に所在する古墳そのものを崇拝していたらしいこと、同社の祭礼時に行われる御湯立の神事(第二巻一〇八ページの写真参照)は、船橋市二宮町三山神社や畑町子安神社の祭礼と密接な関係があり、共によく古制を伝えて由来の久しいことを知るのである(註12)。
千葉国造の後裔千葉国造大私部直善人は桓武天皇の延暦二十四年(八〇五)に外従五位下(げじゅごいげ)を授けられ、翌平城天皇の大同元年(八〇六)には下総国司の三等官たる大掾(だいじょう)の位階を賜り、(『日本後紀』には上総国司となっているが、これは清宮秀堅がその著『下総国旧事考』巻三に述べているように下総国司の誤りであろう)その後一時何か不都合の振舞いがあったために位を返上させられたが、間もなく同四年三月本位に復している。外従五位下という位階は外官(げかん)(地方官のこと)としては最高のもので勅任の待遇にあり、「養老令」の規定によれば二―三六表のように、位田(いでん)、職分田(しきぶんでん)合わせて九町六段の土地と位封(いほう)、季禄(きろく)(春秋二季に給するもの)として相当な分品を賜るほか、事力(じりき)(一年交替で上戸の丁男を徴発して地方官の私用に供するもの)五人を給せられている。彼の朝服は上衣が絹の浅緋、袴は白絹、冠は菱文を織出した黒羅のものを用い、金銀装の太刀並びに革帯をつけ、象牙の笏を持ち、烏(くろ)皮の履(くつ)をはくなど堂々たるもので、数人の従者を従がえて国庁に勤務する身分であった。以上のように善人が下総の豪族中すこぶる厚遇されていたことは、単に彼の器量才腕が人に優れ、老練良く任に耐えるものとして認められたからのみではなく、千葉郷に本拠をもつ伝統の地力が極めて高く評価されていたことを物語るものといえよう。『日本後紀』によれば彼より少し前、延暦四年(七八五)正月には海上国造他田日奉直徳刀自も同じく外従五位下を賜っているから、これらを合わせ考えると、当時房総において最も勢力のあった土着の豪族は千葉、海上両国造の後裔であって、恐らく彼らのもつ経済力は、八世紀中ごろ以降墾田の永代私有(七四三年)による常総平野の莫大な土地財産の蓄積にあるのではないかと察せられる。
官位 日時 | 守(かみ) (一人) | 介(すけ) (一人) | 大掾(じょう) (一人) | 小掾 (一人) | 大目(さかん) (一人) | 小目 (一人) |
大同元年正月 | 従五位上 藤原朝臣道雄 | 従五位下 石川朝臣道成 左衛士従五位下兼権介田中朝臣八月麿 | 外従五位下 大私部直善人 | ? | ? | ? |
大同四年三月 | 従五位下 多治比真人全成 | 従五位下 石川朝臣道成 | 外従五位下 大私部直善人 | ? | ? | ? |
備考 | 平城天皇大同四年三月紀に『前上総介(下総介か)石川朝臣道成、大掾千葉国造大私部直善人並授二本位一、在レ任之日臓汗狼籍並追二位記一、矜レ有二其老旧之労一、故忖レ復焉。』とある。 |
位田 | 八町 |
職分田 | 一町六段 |
位封 | 〓(あしぎぬ)四疋、綿四屯、布廿九端、庸布一百八十常 |
季祿 | 〓肆(し)疋、綿肆屯、布拾弐端、〓(くわ)弐拾口 |
事力 | 五人 |
国名 | 和名抄 | 伊呂葉字類抄 | 拾芥抄 | 海東諸国記 | 節用集 |
安房 | 四、三三五町 | ?町 | 四、三六二町 | 四、三六二町 | 一、三六四町 |
上総 | 二二、八四六〃 | 二二、六六六〃 | 二二、三六六〃 | 二二、八七六〃 | 二三、六六〇〃 |
下総 | 二六、四三二〃 | ?〃 | 三二、〇三八〃 | 三三、〇〇一〃 | 三三、〇〇〇〃 |
備考 一 和名抄には段歩も記されているがここには省略した。 二 当時の一段は三六〇歩(一歩の面積は現在に同じ)で現在の一段二畝である。 |
次に千葉郷内の住民はいかなる名称を冠していたであろうか。このことに関して参考となるものは例の下総国葛餝郡大嶋郷の戸籍(七二一年)である。今これを検討すると孔王部を名乗る戸は五七、私部を名乗る戸は三、刑部を名乗る戸は一の計六一戸が記載されているが、更に各戸内の各人の名称並びに人数の割合は二―三八表のとおりであって、計四五四人中の三八五人は孔王部(あなほべ)であるが、これに続いて私部(きさいべ)が二九人、刑部(おさかべ)が二〇人、三枝部が六人、長谷部、礒部が各二人、以下種々の部を名乗る者が一人ずつある。今これらのうち六人以上の部の出自を説明すると、
孔王部=穴太部のことで安康天皇(穴穂尊)の御名代の民。
私部=大私部と同じく皇后(きさき)の封民で、私部の分布は越中、越前、播摩、備中、出雲、尾張、信濃、因幡、大和、駿河、山城にあり、大私部は越前、美濃、丹後、出雲、隠岐、上総、下総などに分布する。
刑部=允恭天皇の皇后忍坂大中姫の御名代の民(長生郡長南町笠森観音と名古屋市笠寺の両縁起とはすこぶる類似し、付近に刑部の地名を残しているのは、こうした関係に由来する古い物語である)。
また、三枝部は市辺押磐(いちのべのおしいわ)皇子の御名代の民である。
人 | |
孔王部を名乗る者 | 三八五 |
私部〃 | 二九 |
刑部〃 | 二〇 |
三枝部〃 | 六 |
長谷部〃 | 二 |
礒部〃 | 二 |
石寸部〃 | 一 |
藤原部〃 | 一 |
中臣部〃 | 一 |
日奉舎人部〃 | 一 |
土師部〃 | 一 |
不明〃 | 二 |
その他奴一人、婢二人 |
一体千葉、葛餝両郡は六世紀のころいずれも皇室の直轄領土となり、天皇、皇后ないし諸王に奉仕する民となったために、両郷内庶民の隷属関係は相似たものがあると見なければならない。事実千葉郷の隣接地には三枝(さいぐさ)郷があり、ことに千葉郷は大私部を名乗る伴造(とものみやつこ)の出自を明らかにする者がある以上、この部民ないし私部が本郷内居住庶民の主体をなしていたと考えられるが、なお付言するならば、あるいは穴川は穴太部に、稲毛は稲置に何らかの関係をもった所と想像されないこともあるまい。また邨岡良弼は園生(そんのう)に関し次のように述べている。「集解に云、凡そ薬園は師に検校を令す、仍ち園生(えんせい)を取り本草を教読し諸薬並びに採種の法を弁職せしむ、随近の山沢薬草有る所採掘して之を種うと、延喜式を徴するに国毎に学有り、学生五十人を置き医生は五分之一を減ず、式に又云く下総の国雑薬三十六種を貢すと、郡に薬園台村有り此地域は園生の居りし所か(註13)。」彼は園生の地を薬園生(やくえんせい)の居拠と推定しようとしているが、あるいは朝廷の菜園に奉仕する部民としての園部(そのべ)のおった所と考えられないこともない。