3 三枝郷

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 本郷は千葉郷と次に述べる糟〓(かそり)郷との中間に位する地域で、その中心は現在の作草部町付近であろう。同町字宮後にある作草部神社はもと旧歩兵学校構内にあったと伝えられるが、そこには昭和二十二年ころまではなはだしく原形を失いながら僅かに古墳とうなづかれる大きな墳丘があったほか、現境内には同時代の貝塚を残し、天台町には俗称天覧塚(明治天皇御野立の場所)があって近年祭祀関係遺物並びに若干の土師器、須恵器等を発見しているから、付近一帯に上代聚落があったことは間違いない。恐らく本郷は源町紅嶽(べにだけ)に水源を発し殿台、東寺山、作草部諸町の低地を灌漑して都川に合流する葭川(よしかわ)及びその支流の沿岸に水田を開拓した三枝部の居住地で、これを遺蹟分布の状況から判断すると椿森町、作草部町、萩台町、殿台町、東寺山町、源町、原町、貝塚町、高品町の範囲にわたるものと考えられ、字作草部、殿台、東寺山、高品、原等に比較的濃厚であるが、代表的遺蹟としては前記のものを除くと東寺山町大字西前原の大塚・大字稲城台集落遺跡と原町原往還の大塚・源町のすすき山集落遺跡等があり、後期の様相を呈したものが多く見られる。このことは三枝郷居住民の生活を支える水田を、前面の低湿に過ぎる谷間に開拓しなければならなかったという地形的制約を受けて、聚落立地としては必ずしも良好な土地とはいえなかったことを意味するもののようである。

2―164図 作草部神社の偏額


2―165図 天覧塚付近出土の滑石製祭祀遺物(天台町字根崎)

 三枝部は福草部とも書き『新撰姓氏録』に「三枝部連(さきくさべのむらぢ)。額田部湯坐(ぬかだべのゆえ)と同じき祖(おや)、顕宗天皇の御世に諸氏(うぢうじ)の人等(ひとども)を喚集(めしつど)えて饗〓(みあへ)賜いき。干時三茎(ときにみぐき)の草宮庭(みやのにわ)に生(お)いたるを採りて獻奉(たてまつ)れり。乃れ姓(かれかばね)を三枝部造(さきくさべのみやつこ)と負いき。」とあるが、事実は『古事記』顕宗天皇の条にあるように、御父市辺押磐(いちのべのおしいわ)皇子の御歯が押歯(出た歯)であったからだと伝えら(註14)、もとは君津市内額田、湯坐両郷と共に出雲系凡(おおし)河内氏に隷属する部民であったが、五世紀の末葉押磐皇子の御名代の民となり諸国に三枝部の居住民が現れるようになった模様で、この地が千葉郷と同様六世紀には皇室の直轄領となっていたと察せられるのである。したがって王朝時代においてもこれらの聚落は依然として継続し、東北方に位置する物部、山梨二郷を経由して印旛郡下に通ずる要路の散村として若干の聚落があったようで、西前原の方形墳は飛鳥ないし奈良時代の様相をのこし、また村上天皇の勅撰になる『後撰和歌集』所載
  今こんと  いいしばかりを  命にて待つにけぬべし  さくさめの刀自
は平安後期のおもかげを今日に伝えているものとして記憶すべきである。