2―164図 作草部神社の偏額
2―165図 天覧塚付近出土の滑石製祭祀遺物(天台町字根崎)
三枝部は福草部とも書き『新撰姓氏録』に「三枝部連(さきくさべのむらぢ)。額田部湯坐(ぬかだべのゆえ)と同じき祖(おや)、顕宗天皇の御世に諸氏(うぢうじ)の人等(ひとども)を喚集(めしつど)えて饗〓(みあへ)賜いき。干時三茎(ときにみぐき)の草宮庭(みやのにわ)に生(お)いたるを採りて獻奉(たてまつ)れり。乃れ姓(かれかばね)を三枝部造(さきくさべのみやつこ)と負いき。」とあるが、事実は『古事記』顕宗天皇の条にあるように、御父市辺押磐(いちのべのおしいわ)皇子の御歯が押歯(出た歯)であったからだと伝えら(註14)、もとは君津市内額田、湯坐両郷と共に出雲系凡(おおし)河内氏に隷属する部民であったが、五世紀の末葉押磐皇子の御名代の民となり諸国に三枝部の居住民が現れるようになった模様で、この地が千葉郷と同様六世紀には皇室の直轄領となっていたと察せられるのである。したがって王朝時代においてもこれらの聚落は依然として継続し、東北方に位置する物部、山梨二郷を経由して印旛郡下に通ずる要路の散村として若干の聚落があったようで、西前原の方形墳は飛鳥ないし奈良時代の様相をのこし、また村上天皇の勅撰になる『後撰和歌集』所載
今こんと いいしばかりを 命にて待つにけぬべし さくさめの刀自
は平安後期のおもかげを今日に伝えているものとして記憶すべきである。