今上代遺蹟分布の状態を見ると最も濃厚な地域は都川本流にのぞむ台地の縁辺で、加曽利町の新山古墳群・北谷津町の光蓮寺台古墳群・多部田町の多部田古墳群には前方後円墳が含まれ、坂月町の新田山古墳群には昭和十年代まで巨大な円墳があった。また同町細田にあった蝗塚は「高さ一丈余杉樹数株あり、塚上に石槨露出す」(『千葉県千葉郡誌』)とある。
以上の状況から判断すると、本郷の上代聚落は加曽利町を中心として営なまれ、前面の狭長な河谷平野が主な活動舞台であったことと察せられるのであって、すでに金石併用時代のころから多少の耕地が開かれつつあったことは、その坂月町新田山、大宮町城ノ腰両弥生式遺蹟の存在によって推定することができよう。恐らく彼らの開拓した水田は記紀にいういわゆる「川依田」であって、『出雲風土記』に「河口より河上の横田の村に至るまでの間、五つの郡の百姓河に便りて居る(註15)」とあるように、都町、加曽利町、坂月町などに地縁的集団を形造った人々の手により、都川本流の低地に沿って拡大された湿田であり、往々氾濫の憂に悩まされたこともあろうし、また日照りの年には「佐保河の水を塞(せ)き上げて植えし田を刈る早飯は独りなるべし」(『万葉集』六三五)と詠じたように川水を引く苦労もしばしば経験したことであろう。「たらしち吉備の真鉄(まがね)の狭鍬(さぐわ)持ち、田打つなす、手拍(てう)て子等我〓(ま)わむとす」(『播麿風土記』美嚢郡の条)は農民が鉄製の鍬を使用していたことを明らかにしているが、糟〓郷の住民も時にはこのような進んだ農具を支給されたことがあったに違いない。
古典に見える鉄製農具の記載は雄略天皇紀に春日行幸の際、道に逢える媛女に対して詠じた歌の中に、「加那須岐(かなすき)(註16)」とあるを初見とし、以後安閑、孝徳、天武、文武、元正、聖武各天皇紀に钁丁(くわよろぼ)、鍬(くわ)、钁(すき)、鎌(かま)の文字が散見し、『令義解』には調として雑物を輸せば鉄一〇斤、鍬三口、毎口三斤(賦役令)とあり、同禄令には春秋二回(二月、八月)に季禄として〓(あしぎぬ)、綿(わた)、布のほかに正従一位に鍬(くわ)一四〇口以下官位によってその数を減じ、少初位には五口を給すと定められている。これらの記録によって鉄製農具の使用は雄略天皇のころから安閑天皇前後に至る五世紀後半ないし六世紀前半に漸次発達したようであるが、一方この一世紀の間は、皇室の屯倉(みやけ)を始め、中央地方豪族の開墾による水田造成がはなはだ多かったので、千葉三枝両郷のみならず、関東、四国、九州の屯倉は、ほとんどこの時期に設定されている。屯倉を耕作する部民は種々あるが、中でも田部、太田部は最も代表的な称呼で、『万葉集』には千葉郡の正丁に太田部足人(たりひと)の名を記載し、坂月町に太田なる字(あざ)を残しているのは、単なる偶然の一致と解するよりも、むしろ本郷がこの時期に朝廷の直轄領土となったことを示すものとすべきであろう。いうまでもなくこのころから養老年間に至る約二世紀の間は、鉄製農具がかなり貴重な品目とされ、一般には木製の道具が使用され、わずかに皇室あるいは豪族直営の田にのみ使用されたであろうことは、皇室より給わる禄、賞賜の一部を占めていたことによっても、また後期古墳出土の副葬品の中に、しばしば発見される事実によっても明瞭である。
本郷居住の豪族は、当時の聚落地帯の背後に葬られたと思われる数十基の墳壟によって、わずかに知られるのみであるが、邨岡良弼はそれを百済加須利君(かすりのきみ)の弟軍君(こにしきのきみ)の後裔に擬し、糟〓はその遺名であるとしている(註17)。すなわち雄略天皇紀五年(四六一)夏四月の条に「百済の加須利君池津媛の燔殺(やきころ)されたるを飛聞(つたへき)きて籌議(はか)りて曰く、(中略)乃ち其の弟軍君に告げて曰く、汝宜(いましよろ)しく日本(やまと)に往(まい)でて天皇に事(つか)えまつれ。軍君対(こた)えて曰く、上君(かみ)の命に違(たが)い奉る可からず、願わくは君の婦(みめ)を賜いて後に遣し奉えと(中略)、秋七月軍君京(みやこ)に入る。既にして五子あり」とある記事を指すもので、百済滅亡(六六三年)前に蓋鹵王(かふろおう)(すなわち加須利君)が弟〓支(こにしき)君(すなわち軍君)を我国に帰化せしめたとすれば、当時の国交状態の親密さからかんがみて、彼に相当な封地を賜ったことはあり得べきことであるから、本郷をもって軍君の封地の一部となす良弼の推定をあながちに否定することはできない。
次に兼坂(加曽利町)、聖天(大宮町)などに発見された組合式石棺について一考するならば、本様式は大陸に起源を有するもので、すでに金石併用時代から世界各地に分布しているが、東亜においては南満州の赤峰紅山後にあり、朝鮮半島では全般的に分布し、わが国では弥生時代に北九州から中国地方に甕棺葬と並行して行われ、ことに下関市郊外富任(とみおか)では大陸伝来の多鈕細文鏡その他を副葬しているが、徳島県では付近に産する緑泥片岩を用いて古墳の盛行期に盛んに作られ、常総においては六、七世紀に下る末期の古墳においてすら依然として精巧なものが使用され、その分布は霞ケ浦沿岸、印旛沼周辺から千葉市付近に及んでいる(註18)。
恐らく古墳時代後期、少なくとも六世紀をさかのぼるものではあるまい。とにかく糟〓郷内にこれら組合式石棺数基が発見されていることは、本郷が比較的良く旧来の埋葬法をながく保持して大きな変化を示さなかったことを示すものであって、しかもその石材はいずれも硬砂岩で黒雲母、長石、粘土を含有する点において産地を遠く茨城方面に求めることができ、彼ら住民が豪族の遺骸埋葬に際して特別の配慮と労力をいとわず、その葬制の上に、現在の利根川下流域の住民と共通する観念を持っていたであろうことを示唆する。
(武田宗久)
【脚註】
- 『姓氏録』に「大網公、上毛野朝臣と同じき祖(おや)、豊城入彦命の六世の孫、下毛野君奈良の弟、真若君の後なり」とあり、市原市奈良の地は平将門の伝説に付会されて奈良の大仏と称する石像や将門の都したという古都辺(こつべ)、御館前などという場所があり、このあたりから市内土気町周辺は上総国山辺郡高文郷に属するが、土気町には前方後円墳舟塚や大椎廃寺・小食土廃寺などがある。
- 『更科日記』の巻頭には「あづまぢのみちのはてよりも猶おくつかた」云々と形容している。
- 清宮秀堅『下総国旧事考』巻十二
- 『千葉県千葉郡誌』一〇七二ページ
- 『千学集』に「仁戸名三郎左衛門の子牛尾兵部少輔は、仁戸名にさくの内といえる九貫五百の神領を押領せられし時、範覚御鉾を立てられしに、小弓え御馬を出され御取なしなされし兵部少輔の子うなきやの御弟子にて、ちごにておわせしを、範覚の御弟子に上らるべき約束にて落付ぬ。此ほどの千葉寺の山本坊也」とある。
- 砂嘴上にある古社としては、仁和元年(八八五)九月二十五日の創立と伝える香取神社(院内町字大庭)があり、浜堤にある古社としては延喜式内社寒川神社と蘇賀比〓神社(現在は蘇我比〓と書く)が、村田川のデルタ地帯には条里制の遺構かと思われるものがあり、また大金沢町左作には平安前期と推定される瓦窯址がある。
- 例えば『下総輿地全図』には「万葉集千葉野今称六方野」とある。
- 深河元儁『房総雑記』『千葉県千葉郡誌』等
- 「千葉家旧墳墓調査資料」千葉県立中央図書館蔵
- 桑山竜進「武蔵久ケ原出土の火葬骨壺及び釵子に就いて」『考古学』一一巻四号。椎名仙卓「下総国誉田村発見の所謂合口土器について」『上代文化』第二三輯
- 昭和七年十二月香取郡長沼近傍根来名川の下流から出土した大形須恵器の中から蓮実が多数発見された(大場磐雄談)。
- 『成田参詣記』巻三、三山神社の条、『千葉県千葉郡誌』第一章参照
- 邨岡良弼『日本地理志料』一九巻、下総国三枝の条
- 『新撰姓氏録』左京神別下並びに『古事記』下巻顕宗天皇条(御歯は三枝如(な)す押歯坐(ま)せりき)
- 『出雲国風土記』神戸の里の条
- 『日本書紀』巻一四
- 邨岡良弼「前掲書」一九巻下総国糟〓の条
- 茂木雅博「箱式石棺の編年に関する一試論」『上代文化』三六輯 昭和四一年