鐙(あぶみ)瓦

321 ~ 323 / 452ページ
 大別して次の二種となる。
 〔A型〕径約一八センチメートル、高い素縁の内壁に鋸歯状の凸文をめぐらす。内区は一条の圏帯を境として凹み、中房と蓮弁を配す。中房は径約四・八センチメートルの輪状を呈して、七個の突起した蓮子を配する。蓮弁は濶弁式の複弁で、それらが四個の楔状の界葉によって四分された内部に各々二葉宛連続して配置され、小葉は弁周よりも高くて緩慢な孤線を画く。
 〔B型〕A型より大きく径一八・五センチメートル、紋様はA型に類似しているが、素縁の内壁に鋸歯状文の変形である井状凸紋帯をめぐらすこと、中房は径三・四センチメートル程でA型より小さいこと、蓮子数が八個であること、小葉は比較的細長く伸び、かつ弁周と平行に緩慢な孤線を画くなどの相違点がある。

2―172図 千葉寺の鐙瓦の型式

 この界葉によって四分された内区に各複弁二葉を並置するという考按は、我が古代瓦史上極めて類稀なことに属し、千葉県下においてはわずかに市原市光善寺址(註3)と同市武士廃寺出土の遺品の中に類型あるを知るにすぎない。今これらを比較すると光善寺址と武士廃寺のものは、同型同大であって、その間にはほとんど差異を認めない。意匠に落ちつきあり陵線太く、中房やや大きく、蓮弁は比較的扁平な手法で現わされ、素縁の内壁に鋸歯文が陽刻されている。これに対して千葉寺のそれは優雅繊弱の風を帯び、意匠は前記のものとほとんど同じであるが、陵線細く全体的に技巧に優れて流麗にすぎ量感に乏しい。ことにB型における鋸歯文の変形たる井状文帯の表現は、明らかにこの種の瓦当文の退化形であることを物語っている。

2―173図 房総における複々弁四葉瓦拓影


2―174図 房総主要古瓦出土地分布図

 そもそも鐙瓦の蓮華文には大別して二つの系統がある。一つは百済直系とその変化を示す単弁の類であり、他は仏菩薩など蓮座に見る手法をそのまま瓦当文に応用した複弁の類であって、両者とも飛鳥時代に輸入されたが、白鳳時代になると蓮弁間に界葉を配したものが流行し、単弁のものは、中房が小さく周縁に高い重圏があるのを模式とし、複弁のものは中房が大きくかつ写実的で蓮子の数も多く、周縁に鋸歯文、波文、珠文などをめぐらすのが普通である。前者の例としては奈良県山田寺のものが名高く、後者の例としては、法隆寺、川原寺(弘福寺)のものが代表的であるが、房総においては前者に印旛郡栄町竜角寺、同郡木下町木下廃寺に代表されるような狭弁式のものと、君津市八重原村九十九坊に代表される濶弁式のものとがある。また、後者の例としては木更津市中郷の大寺廃寺のものが最も有名である。
 奈良時代から平安時代初頭に至る間は、白鳳期の継承で単弁複弁両様が用いられたが、単弁のもので竜角寺の系統に属するものは印旛、香取、海上、山武北半に分布し、九十九坊の系統に属するものは君津郡下、市原市内に若干みられる。次に複弁のものは二種あり、甲は上総国分寺址及びその周辺にわずかに分布するもので、比較的幅広い素縁の内側に二重の輪廓をめぐらし、内区に二四葉の狭弁式蓮弁が扁平に近い手法で陽刻され、大形の中房内に九箇の蓮子を配する。右は平城宮建立にあたって始めて考案された様式が、広く全国的に波及した流を汲むものと思われる。乙は周縁広く、そこに鋸歯文、波文、珠文、重圏文などをめぐらし、濶弁式で小葉が比較的長く、中房が縮少した形式で、光善寺址、武士廃寺、下総国分寺などにはこの系統に属するものもある。恐らくこの文様は奈良、平安初頭にかけて最も愛好され、甲以上に広く分布し種々な変形を生じたが、その母体となった典型的なものは興福寺、東大寺、紫香楽宮址などにあり、平城宮址からもまた本形式のものも伴出する。

2―175図 房総における各地出土古瓦の拓影

 以上の大観から再び光善寺址、武士廃寺、千葉寺出土の複々弁四葉瓦発生の媒体を究明すると、それはつまり、光善寺址、武士廃寺などから伴出する複弁八葉瓦にあることに気づくであろう。すなわち両者の根本的な差違はただ界葉八枚と四枚にすぎず、複弁から複々弁への過程は界葉数の省略による当然の結果であって、このような変化が起こるまでにはそこに若干の時間的経過があったこと、その変化は市原市内において発生し、やがて四方に伝播したであろうが、たまたま千葉寺建立に際会して、その当時の趣向に添うように改良され、優雅流麗の風を帯びるものとして表現されるに至ったのである。したがって本形式は房総に流伝した濶弁式複弁瓦の変形たる最後の姿として珍重すべきものである。