宇瓦(のきがわら)と文字瓦

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 千葉寺の宇瓦はすべて重弧文の系統に属し、三重弧、四重弧、五重弧の三種がある。手法は型押によったもので断面が凸凹状を呈し、陵線細くいかにも劣弱であって、わずかに重弧文としての遺制を保っているにすぎない。そしてこれを光善寺址、武士廃寺出土のものと比較するとき、いよいよ衰退の状が甚だしいのを知るのである。しかしながら、宇瓦の縦断面は深顎の形式を伝え、両総国分寺瓦に見るような刳顎のものが、全く認められず、また唐草文様の皆無であるところに、かえって旧来の伝統をよく残した地方氏寺としての保守的性格を汲み取ることができる。なお宇瓦の裏面には朱彩の痕跡を残すものがあり、これによって、堂舎が丹塗の装飾を施していたことを知るのは注意すべきことである。

2―176図 宇瓦の拓影

 次に昭和二十七年度の発掘で文字瓦が二個発見された。それは男瓦の表面に篦書で「嶋」と「乙」とある二種で、製瓦後焼成前の生乾きのときに書いたものである。文字瓦は関・東北地方にかなり豊富で既に白鳳時代から現れ、房総においては下総国竜角寺、上総・下総両国分寺などに発見されているが、男瓦の表面に書いたものは珍らしい。当時工人で文字をよくする者は帰化人またはその子孫ないしは彼らの指導を受けた少数の人々に限られていたから、或は製瓦にたづさわった人たちが帰化人と密接な関係にあったのではないかと疑われる。王朝時代の古文書をひもとくと、「嶋」の字を有する地名は『倭名類聚抄』に葛餝郡八嶋郷、同郡豊嶋郷、印旛郡島矢郷があり、『延喜式』に浮嶋駅、『正倉院文書』に葛餝郡大嶋郷嶋俣里がある。右のうち、八嶋郷は大嶋郷の誤、島矢郷は一説に鳴矢(かぶらや)郷の誤といわれ、また『和名類聚抄』の海上郡鳴穴郷は嶋穴郷の誤で、『延喜式』に海上郡嶋穴神社を載せ、現在市原市に同名の地名及び神社を存する。したがって大嶋郷嶋俣里、浮嶋駅、嶋穴郷のいずれかとこの文字瓦とが結びつく可能性があるのであるが、文字瓦に一字を現す場合は、郡又は郷名の最初の文字を書くのが普通であり、かつ複々弁四葉瓦の分布が既述のように千葉・市原両市内に限られている現状からして、嶋穴郷をもってこの文字瓦の製瓦地とするのが最も適当である。次に「乙」の字は該当する地名が無く、他の寺院址出土のものに往々人名を記載する場合があるから、或はこれもその一例で頭文字を略記したものではないかと思うのである。とにかく「嶋」「乙」二種の文字が千百余年前の布目瓦に印されていたという事実は、千葉市内最古の記録として重要な価値を有するものである。

2―177図 文字瓦