瓦塔断片

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 第三号堀坑から二―一七九図のような破片一箇を出土した。これは塔の雛形のようなもの(いわゆる瓦塔)の宇先(のきさき)の部分にあたる断片であって、長径わずかに九・五センチメートルにすぎないが、屋根は本瓦葺、軒は二重となり、〓木(たるき)は角形のものを使用して飛檐(ひえん)〓木と区別しているのは、良く王朝期における木造堂塔の手法をうつしている。
 瓦塔の完形に近いものは、かつて東京都東村山市の回田(総高六尺五寸)から出土しているから、千葉寺瓦塔の全貌もそれによって、大体を窺知することができる。恐らく五重塔形で上部に相輪を載せ、初層は或種の基壇の上に置かれてあったものと思われる。瓦塔造立の目的は一説に塔又は、寺院建立に際してその予定地にこうした模形をまず立て、浄財勧募にあてたといい、或いは官寺に国費をもって塔が建てられたが、民間の寺院では本物の堂塔の代わりに瓦製の小塔を建てたといい、未だ定説をみない。今この種遺物の出土地を検討すると、北は宮城県から南は熊本県まで二一都府県に及び、関東に最も多いが、この中には官寺も含まれているから、必ずしも民間の氏寺にのみ造立されたとはいえない。また、このような目的のためには木製の小塔でもよかったはずで、事実大和国海竜王寺西金堂内には、高さ九尺三寸五分の小塔があり、極楽院には一八尺の木造五重塔があって、後者は元興寺の試塔と伝えられている程であるから、すくなくとも白鳳以後何らかの目的で、木製及び瓦製の小塔造立が各地の寺院で行われ、関東においては比較的瓦塔の場合が多かったのであろう。ひるがえって千葉寺の瓦塔断片は旧境内の東北隅(第三号堀坑)から出土し、そこは、どのように考えてももとから所在した位置と推定することは困難であって、むしろ後世にほかの地点から移されたとすべきである。この瓦は宇瓦のあるものと同じく朱彩のあとをわずかに窺うことができるから、堂舎と同じく、かつては丹塗の荘厳なものであったと思われる。

2―178図 瓦塔(東京都東村山市回田出土の瓦塔)(東京国立博物館蔵)


2―179図 千葉寺の瓦塔(右)表面(左)裏面

二―三九表 千葉県内における瓦塔出土地名表
市川市昔堂下総国分尼寺址
印旛郡印西町別所木下廃寺
佐倉市和田字長熊五良神社境内廃寺址
印旛郡印旛村大字山田字浅間山
千葉市千葉寺町千葉寺観音堂境内
市原市上高根字荻ノ原