2 荒久古墳

329 ~ 332 / 452ページ
 いま、青葉町の国立畜産試験場構内にあり、元は千葉寺区内大字荒久に所在した。千葉寺観音堂の東北東約六百メートルの地点にある横穴式石室を有する方形墳で、俗称石の唐戸(いしのからと)という。封土の現状は著しく変形され、わずかに北東角に旧時の形貌を残すのみである。大きさ一辺の長さ九メートル前後、高さ約二メートルを算する。この古墳は明治二十四年九月に発掘され、内部に所在した遺物の多くは散逸してしまった模様で、その品目、出土状態などは明瞭でない。ただし当時の土地所有者千葉寺町大塚留次郎宅には、太刀一口に変形加工を施したものがあり、また筆者などが調査した際に、石室の床面より一体分の人類遺骸、琥珀製棗玉(なつめだま)三顆、鉄製馬具破片若干が発見された(註9)。

2―181図 荒久古墳の外形と内部の構造
長さ2.07m、奥壁の輻1.40m、入口の幅1.20mである。長さは唐尺の7尺(2.079m)にちかく、奥壁の幅は唐尺の3尺55寸(1.039m)にほぼ接近していることは、この古墳の築造が、唐代文化の影響を受けていることを暗示する。

 石室の構造は極めて短い羨道と長梯形の平面を有する玄室からなり、両者は玄門によって区画され、石材はすべて凝灰質性砂岩の截石の表面を、平滑にしたものを用いて、側面は胴張式に平積となし、上部には六枚の巨石を横架し、奥壁には一枚の巨石とやや小さい石材一箇を積み、羨道両側と玄門の両袖とには、おのおの小さな截石の上に長方形の大きな一枚石を縦に配置する。玄室の床面は粘土を敷きつめ、玄門に接する両隅に排水口を設け、玄門の入口は三箇の截石を積み重ねて室内を閉鎖されていたという。石室底部の位置は、封土周辺の地表面とほぼ同じ高さで、奥壁を北にし、羨道を南に開口する。おそらく、遺骸は玄室の床面上に設けられた木棺の中に安置されてあったことと思われる。
 以上のように、この古墳は封土の外形、石室の構造ともに大陸墓制の影響にのっとった様式で、ことに截石を縦横に積み、玄門を作り、排水口を設け、短かい羨道を付加するなどの諸点において、古墳文化終末に近いころの様相を具備するものとみなして差支えなく、これを周辺山間部に分布する横穴の内部構造と比較するとき、その差はただ截石を用いることと、丘陵の斜面に穴を穿つことの違いにすぎない。
 古墳時代は、孝徳天皇薄葬の遺詔を発布された大化改新(六四六)をもって、一応その下限とするが(註10)、『阿不幾乃山陵記』によれば、天武・持統両天皇の合葬墓たる檜隈大内陵が、截石を用いた横穴式石室の八角墳であると伝え、地方においては播磨国(現兵庫県)宍粟郡金谷古墳からは花枝雙鸞八花鏡を伴い、羽前国(現山形県)東置賜郡赤湯町所在円墳からは、和銅開珎その他を出土するなど、その様式は八世紀初頭に及ぶものもある。このことから、本古墳の年代を王朝時代初期とすることができよう。そして、本古墳の南東約百メートルのところにあった前記観音塚が、同じく立面図において截頂方錐体の外形を良く遺存したなだらかな封土を有する聖域であることは、右を荒久古墳とやや時代を同じくする墳丘であると推定できよう。また千葉寺観音堂の故地と伝えられる範囲の一部に所在することは、これら墳丘の築造者と千葉寺建立の豪族との間に、極めて密接な歴史的関係を内包していることが考えられる。
 次に、荒久古墳より筆者らが篩作業の結果、わずかに検出し得た琥珀製棗玉の原産地については、木更津市金鈴塚古墳出土のそれと同じく、銚子市外川(とがわ)付近から波止山、犬吠岬、伊勢路にわたって所在する白亜紀の露頭に求められよう(註11)。

2―182図 荒久古墳の棗玉(上)と琥珀の出土状況
    (銚子市外川)

 日本における古墳出土の琥珀製加工品の分布の状況をみると、ほとんど全国に及んでいるが、特に多いのは関東地方であり、古墳の時代区分からいうと中期から後期に降るにつれて多くなる。このことは『安閑天皇紀』に皇后春日山田皇女が、天皇の元年(五三四)夏四月「内膳卿膳臣(かしわでのつかさかしわでのおみ)大麻呂勅を奉りて、使を遺し珠(たま)を伊甚(いじみ)に求めしむ」という記事がある。これは六世紀中葉のことで、古墳時代後期にあたり、そのころには、関東地方の豪族のみならず、大和地方の貴族の間にも、房総に琥珀を産することが知られ、九十九里沿岸の下海上、匝瑳、武射、伊甚などの国造らを通じて、琥珀が特殊な交易品、調物(みつぎもの)の対象となっていたことを察するに充分である(註12)。更にこの琥珀の原産地の近くに、玉作郷、編玉郷など玉造を職業とする工業部の故地と思われる地名があることは採取された琥珀が必ずしも原塊のまま各地にもたらされたことを意味せず、あたかも出雲玉造部が、出雲国八束郡玉作山(現花仙山)の瑪瑙を採掘して、御祈玉(みほぎだま)を製作したように(註13)、これらの地における玉造部の手によって、銚子海岸に露出する白亜層が掘鑿され、採取された原塊が種々の形に加工され、一箇の製品としたものが多く搬出されていたと考えられる。
 古墳時代の琥珀は、主として支配階級の装身具として愛用されたが、仏教伝来以降、その用途は急激に拡大し、王朝時代には『陀羅尼集経』の説くところに従って、寺院建立の際に地鎮のため、金、銀、真珠、珊瑚、琥珀、水精、瑠璃の七宝と五穀を埋納する風習もあり、興福寺金堂須弥壇下、元興寺塔址などからこれを証明する出土品のなかに琥珀製玉類がみられる。ほかにも正倉院御物、東大寺献物帳、法隆寺並びに大安寺資財帳などにある品目に、装飾用或は器具として使用されており、更に平安後期中尊寺の清衡の棺中に念珠玉があるなど、その用途は非常に多方面に及んだ。もちろん、当時の琥珀のすべてが銚子産のものではないが、少くともこれらの中には銚子産のものが含まれているであろうことは、前記『安閑天皇紀』の記事によって充分類推されるところであって、房総と大和をつなぐ琥珀の需給関係が益々密接の度を加え、中央権門勢家のみならず、地方の諸豪族もおのおのその身分に応じて若干の琥珀製用具を所持するものがあったことと察せられるのである。おそらく、関東地方出土の琥珀製品の多くは、その材料の原産地を銚子方面に求めたであろうが、荒久古墳に埋葬された貴人もまた、生前には彼の身分の一端を示す頸玉として、琥珀製棗玉を愛用していたのである。

(武田宗久)


 【脚註】
  1. 服部清道「千葉寺沿革史」『千葉寺之研究』一一―四八ページ『房総郷土研究』第三巻一号、昭和一一年
  2. 大場磐雄「千葉寺を掘る」『京成文化』創刊号、昭和二四年
  3. 光善寺址出土の瓦は、早稲田大学考古学研究室にある。
  4. 三輪善之助「千葉寺の宝塔に就いて」『千葉寺之研究』七―一〇ページ参照
  5. 『大日本古文書』巻二、巻三、所収正倉院文書
  6. 清宮秀堅『下総国旧事考』巻一一
  7. 水戸光圀『甲寅紀行』延宝二年四月二十日条
  8. 付近畠地耕作者談による。
  9. 人骨は明治二四年発掘の際、取り集めて有合せの甕に納められた。
  10. 薄葬令は孝徳天皇大化二年三月に発せられたが、『日本書紀』によれば大仁以下の墓は封土を造ることを認められた。ただこの制限がどの程度励行されたかは、今後の問題である。
  11. 銚子産の琥珀はすでに、縄文時代からある種の石器として加工された。右に関しては、北詰栄男・高橋在久「玉類」『上総金鈴塚古墳』四八―五二ページ昭和二六年。野口義麿「石器時代の琥珀について」『考古学雑誌』三八巻一号。昭和二七年など参考。
  12. 八幡一郎「日本古代琥珀流通資料」『人文学舎』第六号。武田宗久「上代房総の玉」『房総史学』四号 昭和三七年。八幡一郎「琥珀」『新版考古学講座』九巻 昭和四六年
  13. 『古語拾遺』に「櫛明玉命の孫は御祈玉を造る、其の裔今出雲国に在りて毎年調物(みつぎもの)と共にその玉を貢進(たてまつ)る」とある。