平安時代の末期、関東地方の南部に勃発した平将門の乱や平忠常の乱は、ただ単なる一豪族の個人的な反乱や、「東国」という当時の末端地方における局地的な突発事件にとどまらなかった。それは、古代国家の政治的・経済的矛盾をあばき、各地における土豪的武士団の抬頭をうながし、やがて貴族支配の律令制社会を崩壊せしめ、武士支配の領国制社会を招来した、いわば日本史上最大の変革の契機となったのである。
しかも、この変革は、大化の改新や明治維新などのように、国外からの影響や刺激もなく、当時の生産基盤である耕地にもっとも密着し、直接、開発と生産にたずさわっていた武士と農民が中心になって、全く自発的に、いわば大地の底から湧き起こったものである。これは世界史上においても、その類例のないほど特異な現象であり(註1)、庶民を中心とする歴史の上では、決して見逃すことのできない、重要な歴史事実なのである。
この画期的な変革をもたらした主体者であり、その最大の原動力となったのは、いうまでもなく、東国における武士団と農民である。そして、その勃興の震源地となり、拠点となったのが、関東各地における、「中世城郭(註2)」なのである。当時の武士団とは、もともとは土地と密着して、みずから新田を開発し、田畑を耕し、牛馬を飼い、武技を練りつつ、その生産と生活を自衛するためにこそ結束した、いわば兵農一致の生産者集団であった。したがって、中世城郭とは、あくまでも、その生産基盤である耕地や牧場と、それを経営する集落(村落共同体)の安全を保障するための防衛施設である。
従来、城郭の研究といえば、もっぱら戦記的な懐古趣味や建築美術的な観賞から、いわゆる「お城」としての美や情趣を求め、ために、もともと天守閣や石塁などの華美な建造物をもたない中世城郭を閑却視してきた。注目されても、せいぜい史上の表面に登場する有名な武将や合戦の「史跡」として、その記念碑的意義だけを求めてきたきらいがある。
平安末期から鎌倉時代にかけて、後世に書かれた口碑的伝承や「戦記もの」文学を除けば、当時の文献記録はきわめて断片的で乏しい。だから、当時の地方史はなかなか解明しがたく、その歴史的記述は困難であるという。しかし、当時の城郭や村落は、現に遺構として、地上にそびえ、土中に埋没している。これらの遺跡こそ、まさにそれを補うべき最適の史料である。
いかに伝承や記録が乏しく、当時の文献がなくとも、現に明確な城郭遺跡が存在するかぎり、当時、この城郭に生産や生活の安全と防衛を托して、これを営々として築き、死守してきた人間集団が存在していたはずである。片々たる文献などよりも、そこには、すでに名もなき武士や農民の血と汗がにじんだ重厚な歴史が厳然と存在しているのである。この埋もれた人間の歴史を発見せずして、なんの城郭研究といえるであろうか。