これが事実だとすれば、この「大椎城址」こそは、関東武士勃興の一震源、千葉氏発祥の一拠点として、きわめて重要な遺跡となる。しかも、平安時代の城址で、これほど遺構の旧態がよく保存されている例は、現在では珍らしく、城郭研究の上でもかけがえのない存在となる。にもかかわらず、この「大椎城址」については、それを実証すべき本格的な現地調査は、これまでに一度も試みられたことがない。たしかに、千葉市大椎町には、「中世城郭」に類する城郭遺構が現存するが、それが果たして平忠常の築いたものであり、当時の生産や生活、軍事や政治の拠点となったものかどうかは、現在のところあくまでも不明である。
平忠常の居城や軍事的拠点としての支城が、どこにあったかについては、諸書まちまちであり(註6)、その中で、寛永年間に千葉重胤が編んだと伝えられる『千葉大系図』や、享保・元文年間以後に「当見」という人物によって書かれたと思われる『千葉伝考記』の記事だけが正しいとする根拠はどこにもない。これは、文字による記録に依存するかぎり、すでに解決しがたい問題であり、現存する城郭遺構の考古学的調査によって実証するよりほかに方法はないのである。
千葉市では、市制五〇年記念・市史編纂事業の一環として、大椎城址の測量調査が、武田宗久を中心とする大椎城址調査団と千葉市加曽利貝塚博物館の手によって試みられた。しかし、諸般の事情により、大椎城址のもっとも中核部に残存する遺構群の厳密な平板測量と、それを中心とする東西一キロメートル、南北七百メートルの範囲の周辺地形を航空測量によって、一枚の図面に定着するだけにとどまった(二―一八八図)。なお、遺構群の考古学的所見にもとづく平板測量は、加曽利貝塚博物館が行い、周辺地形の航空測量は中庭測量K・Kが担当した。
2―188図 大椎城址とその周辺地形図
(遺構部平板測量千葉市加曽利貝塚博物館 周辺地形航空測量中庭測量株式会社)
しかし、一般には、客観的・機械的な表出であるかに思われている測量も、実際には、その調査者の観点や問題意識の如何によって千差万別に変化する。この測量の直接の指導に当たった筆者は、当初より、当時の生活と自衛の拠点として、その機能を果たしていたあらゆる防禦遺構を有機的に把握することを志向していた。それには、かなり広大な地域にわたる綿密な踏査が必要であり、当然、その重点的な発掘調査を実施することが前提条件となる。ただ、現実には、その機会が与えられなかったので、筆者らの独自の現地踏査によって確認した、周辺部の城郭遺構についても、ここにごく簡単に触れながら、この測量調査の不備を補うことにした。