この土気町には、神亀元年(七二四)、陸奥国に、多賀城が築かれたころ、その鎮守府将軍・大野東人が、蝦夷に対する軍事的拠点の一つとして、「金城」または「貴船城」と称する城砦を築いたことがあるという(註8)。その後、千葉氏の一族である土気四郎が、この城郭を拠点にして、「土気ノ庄」一円を領有したことがあるともいわれている(註8)。その後長享二年(一四八八)、越中守酒井定隆がその古城址を再興して土気城を築き、以来、天正十八年(一五九〇)の滅亡まで、酒井氏の城下として栄えていたのである。
この城下町から西南方にのびる平坦な台地があり、その南端の舌状台地上に、この「大椎城址」といわれる遺構が存在する。この土気城下から大椎城址に至る約二キロメートルの間に、少なくとも三カ所にわたって、台地が急にくびれている場所(neck)がある(二―一八九図)。
2―189図 大椎城址周辺城砦とねごや部落
(本図は,建設省国土地理院長の承認を得て,同院発行の2万5千分の1の地形図より複製したものである。(承認番号)昭49第1329号)