Ⅰ 大椎城址の位置と範囲

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 関東平野の南端に、利根川(旧鬼怒川)と江戸川(旧利根川)とによって切り離された房総半島は、それ自体、太平洋に突出した一種の離島である。この南北に横たわる半島は、中央部が瓢箪状にくびれ、東京湾側から太平洋側に横断する最短距離は、わずか三〇キロメートルにもみたない。この房総半島のもっともくびれた部分で、水流を東西南北に分かつ最高の分水嶺に当たるのが、この大椎城址が所在する旧山武郡土気町である。かつてこの地は「峠の庄」と呼ばれ、それが、「とけ」の地名の起源になったという(註7)。それほど、この地域の東側は急峻な断崖をなしている。
 この土気町には、神亀元年(七二四)、陸奥国に、多賀城が築かれたころ、その鎮守府将軍・大野東人が、蝦夷に対する軍事的拠点の一つとして、「金城」または「貴船城」と称する城砦を築いたことがあるという(註8)。その後、千葉氏の一族である土気四郎が、この城郭を拠点にして、「土気ノ庄」一円を領有したことがあるともいわれている(註8)。その後長享二年(一四八八)、越中守酒井定隆がその古城址を再興して土気城を築き、以来、天正十八年(一五九〇)の滅亡まで、酒井氏の城下として栄えていたのである。
 この城下町から西南方にのびる平坦な台地があり、その南端の舌状台地上に、この「大椎城址」といわれる遺構が存在する。この土気城下から大椎城址に至る約二キロメートルの間に、少なくとも三カ所にわたって、台地が急にくびれている場所(neck)がある(二―一八九図)。

2―189図 大椎城址周辺城砦とねごや部落

(本図は,建設省国土地理院長の承認を得て,同院発行の2万5千分の1の地形図より複製したものである。(承認番号)昭49第1329号)